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巨人の星 第10話 「日本一の日雇人夫」



■青雲高校への道のり

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星一徹の仕事は工事現場の人足です。
彼は野球で鍛えぬいた体ひとつで一家を支えています。

一日の労働を終えて帰宅する一徹。
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家では飛雄馬が進路志望の用紙とにらめっこしていました。
それをみると一徹は、用紙をとりあげて勝手に高校名を書いてしまいます。

それを終えると、一徹はおもむろにおひつを開けて弁当を作り始めます。
どうやら弁当の内容はご飯のみ。
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「夜の仕事は給料がいいからな 稼げるうちに稼いでおかなけりゃ」

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休む間もなく、手弁当で夜の仕事に出かける一徹。

弁当なら長女の明子に作らせればいいところを、このような間に合わせの弁当で出かけるということは、
割のいい仕事が急に入ったのでしょうか。
明子ならば働きすぎの父の体を心配して止めようとするでしょうから、
そのようなわずらわしいやり取りを避けるためにこうしたのかもしれません。

いずれにしろ、この短いシーンとがさつな弁当からは
一徹の男らしさが伝わってきます。


このときの進路志望用紙に一徹が書いた高校名はなんと「青雲高校」。
学力も高く、なによりも青雲は金持ちが通うブルジョワ校です。
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第二希望も書かず、
飛雄馬が進むのは名門青雲高校しかないと断じる一徹の思惑はどこにあるのか。
「いずれわかる」としかいわない一徹に、飛雄馬は反発しますが、
それに対する一徹の回答は、腹巻から取り出した預金通帳だけです。

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飛雄馬名義の郵便貯金通帳。
決して安くない金額の入学金、それと初年度の授業料。
それくらいは払えるだろう額の貯金を見せられ、飛雄馬も父の愛情と覚悟を知ります。

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家計を支えるふたりに感謝する飛雄馬


飛雄馬がこれからひたすら受験勉強をして目指すのは、
名門であり、そしてまともな野球部すらない青雲高校。
彼の剛速球をただひとり受け止められるだろう男がそこで待っています。



■放送禁止用語と言葉狩り

この回の正式なサブタイトルは「日本一の日雇人夫」 ですが、
再放送では「日本一の父一徹」というサブタイトルに差し替えられました。
現在発売されているDVDでもこちらが収録されています。
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再放送では劇中の音声のうち「日雇い」などのセリフが差し替えられたりカットされていましたが(再放送の時期や局により対応が違う模様)、
DVDではきちんとオリジナル音源が収録されています。
9話の最後に流れる次回予告でも「日本一の日雇人夫」という音声部分だけは、DVDでは修正されませんでした。


・左翼活動とメディア

「日雇い」も「人夫」「人足」も放送禁止用語です。
なにが放送禁止用語にあたるかは、各局に設けられた放送番組審議会が放送法などを基にした一定の基準に照らし合わせて決めますが、
そのリストのほとんどは差別用語から成ります。

(参考:放送禁止用語- Wikipedia アニメーションの項目

このような「差別用語」を作り出した左翼活動の隆盛はTVやマンガなど、メディアの隆盛の時代と共にありました。
主要な放送事業者が出揃い、ほぼ全ての世帯にTVが普及し、カラーTVの放送が始まった60年代になると、
それまで地道な闘争だった左翼の世界に、新左翼と呼ばれる過激な革命志向をもった活動家たちが登場します。

そして当然のようにその活動は、マンガやアニメ、映画といった文化に影響を与えるようになりました。
白土三平の『カムイ伝』(1964~)などは被差別部落問題を題材にした意欲的な内容で、当時の学生運動家の間でこぞって読まれていました。
当時の濃密なエネルギーをはらんだ左翼的空気が、こうして文化にも影響を寄与しているエネルギッシュな時代だったともいえますが、
同時にこのとき、活動家たちはメディアに積極的に関与、干渉し、それを革命の手段のひとつにできるという不幸な気づきを得てしまったのかもしれません。

その新左翼もやがて、党派間の内ゲバや連合赤軍の粛清に象徴される様に、内部崩壊的な行き詰まりをみせます。
連合赤軍の起こしたあさま山荘事件(1972年)はTVで連日生中継され、
浅間山荘突入の瞬間の視聴率は89.7%という史上最高の数字を記録しました。

こうして新左翼が迷路に陥り力を失った後も国内の左翼活動は根を張ってむしろ活発化していきました。
70年後半から90年代前半は、左翼活動がメディアに対して特に力を持った時代です。

その後左翼の活動は、社会の差別から被差別者の権利を守るというイデオロギーのもとに、
メディアや権力に圧力をかけ、それが逆に「権力」を持つという皮肉な形になっていきます。


・言葉狩りの矛盾

いわれなき差別から弱者を守りたいという考えそれ自体は立派なものだと思います。
事実、日本の発展の歴史は、声をあげることが難しい弱者たちの犠牲を抜きには語れないものがあり、
権力者や富裕層は彼らの声を封殺することでさらなる利益をあげ、
弱いものはさらに弱いものを差別するという歪んだ構造が日本列島に横たわっていました。
それは現在でも歴然と存在しますし、もっといえば人間がつくる社会である以上消えてなくなりはしない暗部であり、
同時に理性的な社会が克服していかねばならないものだと思います。

しかし、その崇高な理念が度を過ぎると、その理念という馬力をもった車が、運転者を置き去りにして暴走することがあります。
新左翼の内ゲバもそうですし、「言葉狩り」もそういった理念が形骸化した暴走車だったと思います。
形だけとなった理念ほどやっかいなものはありません。
なにせそこで重視されるのは、文脈ではなく表面上の見かけなのですから。

左翼活動家は威圧的な抗議活動を行い、差別的な言葉を使わないようメディアに圧力をかけました。
これにはほとんど脅迫に近いものも含まれます。
その過程で、やがて理念はうわすべりになり、内容は希薄になっていきます。

被差別者を差別するような言葉さえ使わなければ、差別はなくなるのか。
そういった視点はなく、ただ汚いものにフタをするだけの猪突猛進型の活動だったように思います。

やがて言葉狩りは身分差別、性差別、職業差別、障害者差別と差別の範囲を広げるうちに、勢いあまってやや拡大解釈が入り、
古来から民衆を意味する「百姓」や、鉱山労働に従事する「鉱夫」という言葉まで狩られていきます。
『巨人の星』第10話の「日雇い人夫」という言葉も、この流れで放送禁止用語になりました。
日雇いとは労働の雇用形態であり、人夫は現場労働者のことです。
ですが、作中で飛雄馬が言いたかったことを思い出せば、少なくともこの言葉を安易に狩ることが正しいのかどうか疑問をもつはずです。

その言葉を使う側に差別意識があるならばそこに「差別」はあるのでしょう、
そして、その差別の存在を社会に気づかせ、使わせなくすることで差別を根絶するのが彼らの趣旨です。
しかし見方を変えれば、その言葉を封じた時点で、
その言葉による差別を承認し、そこに「言葉による差別」という新たな差別の価値を生んでいるともいえます。
この自己矛盾した構造に気づけなかったのが、言葉を狩る人たちのそもそもの過ちです。
本当に差別をなくすのなら、言葉をなくすのではなく、差別構造をなくすのが筋です。
差別構造がなくなれば、その言葉は差別の意味を持たなくなるからです。


・言葉狩りの完成形「自主規制」

さらに、エセ同和に代表されるような利権団体化した左翼活動の問題が拍車をかけました。

こういった弱いものの権利を守るための活動を標榜し、活動家を自称した暴力団まがいの連中が、 被差別者の権利を代行するかにみせて企業を脅迫して不当な利益をせしめるといった企業恐喝が横行しました。
中には本当に「ヤクザとしての恐喝」を「革命の手段」と捕らえている左翼理念を持った新左翼くずれのヤクザもいたようです。
大企業から金をせしめることは資本主義へのささやかな勝利だからです。

こうした経済ヤクザが適法ギリギリのラインでカモを民事の泥沼に引きずり込むのですから、企業もたまったものではありません。
これらの恐喝は、弱者の立場を謳った巧妙なものですから、人気商売であるメディア企業は安易に体制側である警察に相談すわけにもいきません。
こうしたことがまかり通った結果、放送界や出版会は、求められたリスクマネジメントへの安直な回答として言葉を「自主規制」していくようになるのです。
そこには、活動家たちが好みそうな言葉を選んだ結果、彼らの暴走をトレースするような行き過ぎが見られました。
ここで言葉狩りのシステムが完成に至ります。
手塚プロのように、強い信念を持ってこれらの抗議に対抗した出版人もいます。
彼らは作中の黒人描写に抗議を受けても、そこで安易に折れず、
手塚作品に差別の意図はないし、時代背景や作者の人格権を大事にしたいので、あえて原典に修正を要れず出版するという趣旨の明言をすべての単行本の巻末に記しました。

それも当たり前の話で。差別を憎み、その悪の所在を描き出してきた手塚治虫作品にそんな意図があるわけないのですから。
(この巻末の文章は言葉を選んで繊細な気配りで書かれてはいますが、「人格権」のくだりをみると、表現の自由にまで踏み入った強い意志の表れた内容だと思います)

しかし多くの大手出版社や放送局は、なんの担保もない作品たちの管理をするため、安易に自主規制という枠に押し込める方針をとりました。

そして過去に流されたアニメや過去に出版された漫画にまでさかのぼって容赦なく修正が入れられることになります。
石ノ森章太郎の作品ではミュータントが主人公の漫画で(作品名は失念しましたが『イナズマン』だったと思います)指の数が修正されました。
手塚治虫の『ブラックジャック』でも、6本指の人物を犯罪者として描いたため、自主的に単行本から削られたエピソードがあります。 (これはのちに手塚自身の手により指の数を別の描写にかえてリメイクされました)
4本指や6本指の描写は多指症や欠指症差別に当たるからですが、たしかにこの作品で傷つく人がいたかもしれません。
作品に修正が入れば、そのような差別に苦しむ人はそれを目にしなくてすみます。
しかしその代償として、指の数が元で差別された背景を持つ登場人物の苦悩のドラマやテーマ性はスポイルされました。

さらに4本指の場合は、障害者差別とはべつに特別の意味を持ちます。
一部の地域では、親指を一本折って4本指を立てる仕草には被差別部落出身者を蔑む意味があります。
四本は四足を意味し、四足の動物を食肉にするために屠殺する仕事を一手に引き受けていたのが部落出身者だったことを受けての差別的表現です。


(ちょっと脱線しますが、このブログは「食」を語っているので触れておきます)

本来「屠殺」とは、人間が肉食をする以上誰かがやらねばならない尊い仕事です。実際神事として動物を屠殺する習慣も日本に存在しました。
しかし仏教の伝来以降、生き物を殺すことは次第に「穢れ」として捉えられるようになり、人々から忌避される習慣が根付いていきます。
「穢れ」は仏教用語で不浄を現す言葉で人間の魂の汚れのことです。
これは人間が人間を語る上で最大の侮辱ともいえます。
動物を殺すの穢れているのなら、その肉を食べている人間だって穢れています。人にやらせて手を下さないだけたちが悪いとすらいえます。そのうえで、自らのケガレまでを食肉加工業者にだけかぶせるというのならなんとも虫のいい話。
被差別部落民がこの仕事を独占していたのは裏をかえせば、政府にとっても宗教観を利用した階級差別が、国を統治をするに当たり都合のいいことだったからであり、人の嫌がる仕事を特定の人々にやらせるためのシステムをつくり存続させてきた社会へ、どんな形であれ、いつかしっぺがえしがくるのも当然の結果ともいえます。


さて、部落開放同盟などの人権団体は、この四つ指の描写を差別表現と結びつけ、メディアに徹底的に抗議をしました。
古い藤子不二雄作品などをみるとわかるように、昭和30~40年代の(とくに幼年向けの)漫画やアニメには、まるっこいキャラクターにあわせ、簡略化された作画をするために、指を四本で描くのが当たり前の風潮があったのですが、
4本指の描写は人権団体の抗議の対象となるため、次第にこの指の描写様式は廃れていきます。

やがて時を経るうちに、この指の修正の傾向は、自主規制となって過熱化し、「4つ」といっただけで「四つ指を連想するから」と言葉を言い換えたり、4本指を立てているというようなどうでもいいシーンにまで修正が入れられるような惨状にまで行き着きます。
その行き過ぎがひどかった頃(1990年代はじめ)に、小林よしのり氏が『ゴーマニズム宣言』の中で漫画家の立場から大音声でこういった傾向にまっこうからの批判をぶつけています。

こういったカウンター的な警鐘や、小林氏のような影響力のあるメディア人からの啓蒙活動もあったからなのでしょうか。
人権団体の内部からもこうした過剰な表現規制への疑問の声が上がりはじめ、
現在では過去のような過剰な自主規制はなりを潜めつつあります。



・『巨人の星』第10話は差別表現か

このように漫画は言い換えや加筆などで修正が可能なものもありましたが、アニメは声優などの理由で音声カットという方法がとられました。
古いコンテンツの再放送で言葉が途切れることがあるのはこのためです。
ここまでくるとだいぶわかりやすくなりますが、これは文化の破壊行為です。

言葉狩りにあった漫画やアニメ、映画のメディアの中には、
そういった悪質な差別構造を気づかずにはらんでいるものもたしかありました。
個人的には、障害者差別を含む言葉の多くにはメディアの配慮があっていいと思います。
(ただし言葉は時代を映すものですから、過去の作品にまでさかのぼるのは反対です)

しかし一方で、差別にはまったく無関係なものもありましたし、さらには差別構造を描き出した意欲的な作品たちもあったのです。
部落問題を扱った学生運動のバイブルであった『カムイ伝』だけが、差別を差別として描いていたわけではないのです。

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今回とりあげた『巨人の星』の第10話などは、まさしく差別に対する怒りが描かれている健全な作品です。
これを「差別用語」があるからと狩ってしまうのは本末転倒。
大事なのは「文脈」であって「言葉」ではないのです。

ブルジョワ親子ばかりが集う待合室
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つぎはぎのあたった制服にざわつく面接官たち
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このエピソードのクライマックスは、金持ち高校の面接試験の会場での出来事です。
鼻持ちならない階級意識をもった金持ちたちに向かって、汗して働く労働者の子である飛雄馬が、
父ちゃんがいかに立派な人物であるかを、ゆるぎない確信をもって語ります。

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「僕の父は 日本一の日雇い人夫です!」

これは「被差別者の子が、差別に立ち向かう」話であり「労働の尊さを訴えかける」 物語なのです。
それなのに「日雇い」という言葉を消したり言い換えたりしていいものなのでしょうか。
間違いなく作品のテーマ性はそがれ、主人公の想いに意味はなくなります。
そして、描かれた差別構造もなくなりはしないでしょう。
ただ目に付かなくなっただけなのです。

見えないことは、ないことと同義ではありません。
同じように、見えることもあることと同義ではないのです。
『巨人の星』を言葉狩りするような思想ならば、その底にあるのはまったくの空虚としかいいようがありません。

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侮蔑をこめた笑いをなげかけるPTA会長

 

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「なにがおかしい 聞きたければ何度でも言ってやる 俺の父ちゃんは日本一の日雇い人夫だ」


飛雄馬のセリフから伝わってくるのは、自分の存在をかけた確信。
父への尊敬や労働の尊さだけです。
他のものが見えている人は、この作品を見るべきではないのかもしれません。
そして本当に見ていなかったりするのでしょう。


この記事に対するコメント

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【2016/11/12 00:07】 | #[ 編集]

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【2015/03/20 01:11】 | #[ 編集]

Re: タイトルなし


「保育に欠ける児」というのは、不勉強で初めて知りました。用語の出どころを見てみたところ、ご指摘の通りどうもこれは児童福祉法で使われる法律用語のようですね。
「必要とする」とか「満たない」とか言い換えは考えられますが、保育所の入所要件を満たすための表現として、誤解を生んだり、言い足りない部分が出ないようにこのような血の通ってない直接的な書き方になってしまうのかなと思いました。成文法の国ではなかなか修正される機会はないと思いますが、法改正時に文言ごと表現が改まる余地はあるのではないでしょうか。

【2014/11/22 16:04】URL | gugugu #-[ 編集]


素晴らしい記事ですね。
言葉狩りを感じた時(最近だと「障"がい"者」でしょうか)に何度も見に来て、読んでいます。
インターネット上にずっと保存したい記事です。

「保育に欠ける児」というのをご存知でしょうか。こちらのほうがよっぽど差別的と思うのですが、未だに使われているのは専門用語に近い語だからでしょうか。

【2013/09/30 13:43】URL | なむ #v0W2OX1k[ 編集]

Re: タイトルなし


社会のシステムがそうなっているという現実を語ることは、建築業界のひとつの面を言い当てていると思います。
粗野な人間を快く思わないのもまた当然の感情だと思います。

突き詰めてしまえば、印象とは感情を含んだ個人の中の問題ですから、「いい印象を持てない」というしゃべちゅさんの見解を、他人がどうこうできるものではないのですが。
ただ、それを表立って口に出せば、(私を含む)他人が目にすることとなり、印象だけに収まらない、それ以上の性質をもち出すのではないかと。

高度専門職とは「また別である」というのも確かでしょう。
事実として、仕事の工程には川の上流と下流があり、それらの位置する場所が別である以上、従事するのは当然別の職種なのですから。「また別である」というのはまったくもって正しいと思います。
しかしそれを、その文脈でいうことには、文章以上の意味を持つこととなりはしないかなと思うんです。

差別の恐ろしいところは、気付かずに日常の感覚に潜りこんでくることだと思います。
人は混沌とした世の中の事象を整理して理解するために、物事を簡略化して別けたがるし、わからないことに理由をつけて理解したがりますが、その分類の作業の中に落とし穴がないとも限りません。

たとえば、不良少年は最初から不良少年だったのか。親が悪いのか、社会が悪いのか、本人が悪いのか。粗野な人は、貧困層だから粗野になったのか、粗野だから貧困になったのか。
そう考えていくと、因果関係の中のどこに線引きをすればいいのかもわからなくなってきます。

そんな中で、ただひとつ簡略化できることがあると思うのです。
それは、社会的な単位に本来はそれ以上の意味はないということです。
「学生」はイコール不良少年ではありませんし、その反対に優等生でもありません。
「貧困層」は犯罪者でも善良でもありませんし、
「人間」は粗野ではありません。

この建築業界の例で言うと、ひとつの事業の仕事の工程に上下はあっても、職種に貴賎はないということです。
上流と下流の両方なければ川は川になりませんし、下流が上流から恩恵を受けるのと同様に、上流も下流から恩恵を受けているのでないかなと。

もちろん統計をとれば傾向はあるでしょうけども、
それはその傾向を取り巻く様々な因果の中で複合的に考えねばならない問題であるように思えます。
それこそシステムが変われば常識がひっくり返り、傾向もひっくり返る可能性があるのです。

「差別はするべきでない」と私も思いますし、そんな中で忘れがちな「常識」への不信感はいつでも持っていて損はないんじゃないかと同時に思うんです。

【2010/06/24 01:11】URL | gugugu #-[ 編集]


建設関係の現業系労働者は粗野で無教養な貧困層出身者が多く犯罪率も高いです。どうやら中学高校で不良少年だったものをリクルートするシステムが確立されているらしいです。差別はするべきでないとは思いますが、彼らにいい印象はどうしても持てません。建築士などの高度専門職はまた別だと思います。

【2010/06/23 12:01】URL | しゃべちゅ #I4t1ZHtI[ 編集]


コメントありがとうございます nbさん。
本放送当時の生の貴重な意見は、とても参考になります。
私は再放送世代なものですから、やはり当時の空気を知っている方の話を聞くと、のちの視点でしか過去を振り返れないという限界を感じます。
いかに番組がメッセージを発信していようと、視聴者が違った形で受け止めることはあったのだということがわかります。
特に子供の世界は残酷ですから、それが自然かもしれませんね。

建設関係の仕事が馬鹿にされるという傾向は現在でもあるのでしょうか。
ちょっと話がそれますが、私はコンクリートの建造物が好きで、
よく道すがらに出会うちょっとした構造物でもじっと眺めてしまうことがあります。
いかに設計者が良いものを作ろうと構想しても、現場でそれを正確に構築できる人間がいなければ、それはそこに存在しえません。

建築物をつくるということは、街をデザインすることであり、
これは現場に関わる全ての従事者が揃って初めて成しえることだと思います。

私は、街はそれ自体がひとつの美術品だと思っています。
実際に街をテーマにした写真集や画集がありますが、それは誰かの作ったものを拝借した二次的創作だといえます。

いつもそういうことを考えながらコンクリートを眺めています。

【2009/08/17 07:03】URL | gugugu(管理人) #R5fBW5y.[ 編集]


差別用語のページから子供の頃印象に残った言葉検索して来ました。
私は現在五十一歳ですが子供の頃のこの巨人の星の場面覚えています。
私のクラスではこの放送の後、親御さんが日雇い労働していたところの子供がかなり馬鹿にされたの覚えています。
私も大人になったら日雇人夫にはなりたくないと思ったものです。

考えてみると昔はかなり建設関係の仕事は馬鹿にされてたなと感じます。
今私は親が建築士だった関係で建設関係の仕事やってますが世間の人もそんな目で今も見てるのかと思う時もあります。

今この場面見てると確かにあなたが言われるように

これは「被差別者の子が、差別に立ち向かう」話であり「労働の尊さを訴えかける」 物語なのです。

その通りですね。

【2009/08/15 21:49】URL | nb #-[ 編集]


コメントありがとうございます。
日本での『ちびくろサンボ』事件は経緯を調べてみると、抗議をした市民団体(手塚プロへの抗議と同じ団体)の主張がアメリカの公民権運動の中での『ちびくろサンボ』規制を元にしていたりと、だいぶ複雑な背景があったようですが、ここでも最後は自主規制がとどめを刺していますね。
著作権問題をクリアしていなかったという説もあるみたいですが、
いずれにせよろくな議論もなしに廃刊されたものが、近年になってちゃんと復活できるのですから、
当時の出版社の対応に過ちがあったのだけは間違いないと思います。

同市民団体の抗議文の一部をネットでみつけましたが、実際に読んでみると取り付く島がない内容でかなり厄介なオーラに満ちていると感じました。
こういう手合いを相手にするのがめんどくさくなる気持ちもちょっとわかります。(しかもそれが内容証明郵便で送られてくるのですから)
しかしそこで面倒くさいものに蓋をしてしまったら、二度と出版に対して誇りをもった仕事はできない気もします。

健康なものまで悪としてしまい、公共の利益を損なうような逆差別を推進してしまう人たちの中には、やはり大きな自己矛盾があると思うんです。
サンボや手塚作品(他にもジャングル黒べえやダッコちゃんなど)を糾弾して日本から消していったこの市民団体は、
「まっ黒い肌や分厚い唇など黒人の身体的特徴を誇大化している」という主張からこの行為を正義の差別撤廃運動としてやっていますが、逆に彼らに言いたくなります。それこそ黒人差別じゃないんですかと。
だって(黒人も肌の黒さなどいろいろですが)実際に分厚い唇や黒い肌をもった人たちもいますから。
これでは、分厚い唇や肌が黒いのが悪いといってるようにしかきこえません。
差別表現が黒人を傷つけているとおっしゃっている、あなたがたこそが黒人を傷つけ差別しているんじゃないですかと。
それに、少なくともこれだけはいえますよね。
黒人の特徴をもった分厚い唇で真っ黒な肌をもった愛らしいダッコちゃんやサンボや黒べえを、日本人は愛していたんだと。
どうも、いい足りなかったようで長文になってしまいました(笑)

【2008/10/06 04:59】URL | gugugu #R5fBW5y.[ 編集]


とても素晴らしい記事ですね。
本当に同感です。
「ちびくろサンボ」でさえ、「差別」として
一時、出版停止に追い込まれて
これこそ「逆差別」ではないのか、と思いました。
どんどん、表現の幅が狭められ、
中島らもも、これじゃ使える言葉がなくなる
と出版社に言ったら
「いいじゃないですか」と言われ
脱力したと言う話もあります。

【2008/10/05 15:16】URL | 翡翠(ひすい) #flPMGraQ[ 編集]

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