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ベクシル 2077日本鎖国

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士郎正宗の原作漫画をCGアニメで映画化した『APPLESEED』(2004年 東宝)の流れを汲む完全オリジナル劇場用作品です。
今回も『APPLESEED』と同じく、全篇「3Dライブアニメ」と名づけられた手法を使って作られています。
これはモーションキャプチャーとトゥーンレンダリングを組み合わせたもので、この映画のスタッフによる造語です。

モーションキャプチャーは人間の体中にとりつけたマーカーの動きをコンピュータにデータとして取り込み、同じ動きをCGキャラに演じさせることができます。
トゥーンレンダリングは、CGでモデリングしたキャラクターを、輪郭線で縁取り、影の部分と明るい部分の二色にすることで、CGを従来のセルアニメの質感に近づける技術です。

このふたつの技術により、セルアニメの質感に近づけた画質の3Dのキャラクターに、人間と同じ動作をさせることができます。
『APPLESEED』のときにはセルアニメを意識したフラットな質感だったのですが、『ベクシル 2077日本鎖国』では、その特徴を捨て、従来の3Dアニメのように陰影に立体感を持たせてあります。



■3Dアニメの限界と課題

それでは、最先端のCG技術で作られたこの作品の食べ物の描写を見てみます。
(※注意:ストーリー前半部分のネタバレ含みます)



 ・CG描写の労力


    街の中に所狭しとあふれる露店の数々

この物語にとって、食べ物は非常に重要な意味をもっています。
鎖国状態の日本の中には生体ロボットと化した人間たちによって街が作られ、その中では、人間だった頃の生活を懐かしむように人々が日常の生活を営んでいます。
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 吸う必要のないタバコを吸うマリア

食べることができなくなってしまった彼らは、わざと食べ物の露店を往来に出して、食べる真似事をしているわけです。
作中のセリフをきいていると、おそらくこの食べ物は本物ではなくフェイクだと思われます。

しかし実際に作中で食べ物が描写される頻度は恐ろしく少ないです。
食べものの露店は遠景で流されるだけで、カメラが寄って写すことはほとんどありません。
唯一ラーメンの描写がありますが、これを見ると、なぜ食べ物の描写が少ないのかわかった気がします。

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おそらくは偽の素材でつくられたフェイクラーメン

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露店の店主と、出されたラーメンをすする老人

このシーンを見ると、ラーメンの外観が一度出てきただけで、
食べる描写は店主の肩越しの遠景になり、口元はどんぶりに隠れてしまってます。
恐らくこれはわざと食べる姿を描かないための方法をとったからだと思われます。

なぜなら、もしも「ラーメンをすする」と言う描写をCGでまともに描こうとすれば、恐ろしいほどの労力が必要となるだろうからです。
ここに3Dアニメの限界があるように思います。

3Dアニメはそもそも、キャラクターの3Dモデルを時間をかけて作り、それを自在に動かすことで成り立っています。
いってしまえば、最初に苦労をしてあとで楽をするのがCGアニメの作業です。
こうなると、シーンあたりの費用対効果を2Dアニメ以上にシビアに考えなければいけないでしょう。

例えばキャラクター以外の小道具や大道具は、その場限りに使うものもあるでしょうから、その場合はその場面のためだけにモデルから作るわけです。
従来の2Dアニメなら、描く手間は資料さえあればどんなモノでも同じですから、劇中にどんなものがでてきても労力的にはそれほどの違いはなく対応できますが、3Dの場合は、シーンあたりのコストをどうしても考えなければいけなくなります。

とくにラーメンのような複雑な構造をもつ食べものは描きにくいはずです。
もし本格的にラーメンを描写しようとすれば、スープの中に沈んでいる麺を一本一本描き、スープ、ナルト、シナチク、ネギ、海苔といったそれぞれの具に、変形特性や弾力や浮力などのパラメーターをもたせて物理的にシミュレーションしなければいけません。

長編映画の中に1回だけ出てくるラーメンに、人物と同じだけの労力や時間をかけられるかというと、かなり無理のある話で、あとは映画の予算や監督の考え方に左右されるように思います。

これが2Dのアニメならば、人間の感性によるディフォルメをするだけですから、むしろそちらのほうが簡単な作業に思えます。

 ・CGキャラの所作

そういった技術的な限界のことを踏まえたうえで、ここでヒロインであるベクシル唯一の食事シーンを見てみます。
冒頭にベクシルがガムを噛むシーンがありますがそれを除くと、作中で食事をまともに描いたシーンはここだけです。

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リンゴの皮をむくベクシル(食べるシーンはなかった)

ベクシルはこの街ではめずらしい生きた人間ですから、レジスタンスのマリアに貴重な本物の食材を買ってきてもらってそれを口にします。

メニューはカボチャとジャガイモの煮付けですが、アメリカ人であるベクシルは箸がうまく使えません。
日本では行儀が悪いとされる「握り箸」で食べようとします。

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つまもうとしても、こぼれてしまうカボチャ

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このカボチャとジャガイモですが、よくみるとポリゴンのつなぎ目が鋭角に見えてしまっています。
自然の作りだした食材は、単純なものでも複雑な形をもっていますから、それを描こうとすれば
それなりのポリゴン数を使って、微妙なラインまで再現しなければリアルな描写はできません。
映画はリアルタイムで動かす必要のあるゲームのCGではないのですから、
ポリゴン数を落としたこの煮物は非常に雑な描かれ方をしていると言わざるを得ません。

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 ついにカボチャを上からぶっさすベクシル

少し意地悪な考え方ですが、ベクシルが日本人という設定だったら、このシーンはちゃんと箸を使う食事シーンになっていたでしょうか。
箸使いというのは指先を使った繊細な動作なので、雑な描き方はできません。
このシーンで、握り箸の持ち方でカボチャを刺すというのはベクシルにとっても合理的ですが、それはCGクリエイターにとっても同じなのではと考えてしまいます。


さて、いよいよベクシルがカボチャを食べるのでそれを見てみましょう。




この映画では、CGキャラクターの動きに、実際の人間の動きを取り込んでいますから、非常にリアルな細かい動作をします。
しかし実際に出来上がった食べているシーンが「リアル」かというとその逆に思えます。
とても味気がなく、かつ不自然なシーンになってしまっているのです。
その理由を考えてみましょう。

この「3Dライブアニメ」といわれる手法には、全身につけたマーカーの動きをデータとして取り込むモーションキャプチャーだけではなく、
顔の数箇所にマーカーをとりつけて、その動きをデータ化するフェイシャルキャプチャーも同時に使われています。

(追記:これは誤りで、『ベクシル』ではフェイシャルキャプチャーは使われていないそうです。そのつもりでお読みください。)
フェイシャルキャプチャーの実例
フェイシャルキャプチャー < テクニカル情報 < INFO情報 < Vicon
http://www.crescentvideo.co.jp/vicon/info/technical/topics/20041004.shtml


海外の3Dアクションゲーム『Heavenly Sword』の制作映像。
モーションキャプチャーとフェイシャルキャプチャーのマーカーを全身につけて演技をしている。
Heavenly Sword-07
Heavenly Sword-01
http://www.us.playstation.com/heavenlysword/makingof.html
(開発:Ninja Theory 発売:ソニー・コンピュータンタテインメント)


フェイシャルキャプチャーで取り込んだ動きを正確に再現することで、演技上でのさらなるリアルさを狙ったのでしょう。
まずはこのフェイシャルキャプチャーに技術上の問題はないか考えてみます。
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人間の顔は実に微細で複雑な動きをします。
食べものを食べるときは、唇だけでなく、頬やあご、さらにその部位につながる全ての筋肉や皮膚が連動して動きます。
もともとは、声優が喋るときの口の動きをキャラにあわせるために必要とした技術なのでしょうが、これが食事となると、さらにリアルで精密な描写が求められるように思います
食事のときの口周辺の動きを正確にフェイシャルキャプチャーで取り込むとなると、必要となるマーカーの数は飛躍的に上がり、これを取り込むのにも再現するのにもそれだけ多くの労力がかかってしまいます。
そもそも、キャラクターのモデリングの時点で、このような複雑な口の動きを再現できるだけの表現力を前提として作っているのかは疑問です。


 ・ディフォルメの重要性

ここで冒頭でベクシルがガムを噛むカットを見てみます。
ベクシルが画面に初登場するカットです。



実際に動くところを見るとわかるのですが、このシーンは良く出来ています。
もごもごと動く唇に、あごの動きが加わって、ちゃんとガムを噛んでいるように見えます。
これをみるとフェイシャルキャプチャーという手法に大きな欠陥があるとは考えにくいと思います。
となると、このシーンで加味された部分に秘密はないでしょうか。
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   [拡大図]
このカットでは、ベクシルがはじけたフーセンガムを舌ですくい取る口の中の動きも描写されています。
しかし舌の先にマーカーをつけたとは考えにくいので、これはCGアーティストがあとから付け加えた描写じゃないでしょうか。

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『Heavenly Sword』のメイキング映像より。
舌を出す演技のときにも舌先にマーカーは見あたらない。

そう思ってよく見るとベクシルの口の端はやたらとぐにゃぐにゃと曲がっていて、現実にガムを噛む動作と比べて、非現実なまでに歪んでいるように見えます。
つまりここでは、クリエイターの手によるディフォルメがされているのではないかと思えるのです。

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アニメーションという表現方法において、ディフォルメはその根幹に流れている重要な思想です。

現実と同じものをただ絵で動かすだけならば、人物の実写を撮りそこからトレスで描き起こせばいいのです。
その技法をロトスコープといいますが、初期のディズニー作品では実際にこの手法を使いました。

ディズニー作品は、ロトスコープで人間の動きをトレスしておいて、その動きを利用して動物を描写したりしていますから、アニメーターの手が入ることで、出来上がりの絵には多かれ少なかれディフォルメが加わっています。
このとき、人間のキャラクターならば、顔の表情にディフォルメが介在する余地があります。

ロトスコープはその概念からして、現在のモーションキャプチャを利用した3DCGアニメに非常に通じるものがあります。
しかし人の肉筆が入るという点において、3DCGとは決定的な違いがあるといえます。

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ガムを噛んでいるベクシルの別カット
口の結び目に作画者の意図的な歪みが加わっているように見える

ガムを噛むシーンではベクシルの顔を正面からアップでとらえる構図だったので、それだけの描写が求められたのかもしれません。
しかし、カボチャを食べるシーンのベクシルは、そのリアルな体の動作に比べて、口周りは非常に淡白な動きしかしていませんでした。
つまり、ディフォルメを入れることなく、キャプチャーデータをそのまま3Dモデルに反映させた。
これが、カボチャのシーンでの不自然さの正体ではないでしょうか。
だとすれば、究極のリアル表現であるはずのモーションキャプチャーが、なぜそのような不自然さを呼んでしまうのでしょう。
逆に2Dで描かれた手描きアニメに、なぜ私たちはときおり「リアル」を感じるのでしょうか。


  ・脳が感じるリアル

そもそも私たちが感じる「リアルさ」とは、非常にあやふやなものです。
昔SEGAのアーケードゲームで『バーチャファイター』(1993年)というのがありました。
格闘ゲームでは初の3Dポリゴンによるキャラクターを使ったゲームで、その立体感やなめらかな動きの「リアル」さに、多くのゲームファンが驚きました。

当時、ゲーム機上でリアルタイムの3Dポリゴンを動かす技術は黎明期で、キャラクターといっても、カクカクした単純なパーツを組み合わせたハリボテの人形のようなものでした。
しかし、わずかの間に技術は飛躍的に進化し、翌年続編の『バーチャファイター2』がリリースされると、その美麗な画面が好評を博しましたが、その裏でこういう声も聞かれました。
「人形みたいだ」「一作目のときのほうがリアルだった」と。

ポリゴン数はふえて、カクカクも見えなくなり、陰影も滑らかになって、キャラクターたちはよりリアルな人間に近づいたのに、ファンは「リアルでなくなった」というのですからおかしな話ですが、彼らは同時にそれがなぜなのかという答えも知っていました。
バーチャ1には確かにあったのに、バーチャ2ではなくなってしまったものがなんであるのか。

この話は、人間の脳が目から入ってくる情報に、いかに多くの情報を想像で付け加えてるかということを物語っています。
例えば紙に印刷された漫画の絵は動きませんが、読者はそこに動きを感じるし、音を感じることもあるでしょう。
「動く」アニメーションにしても同じように見る側の想像が加わっています。

TVアニメで上半身を微動だにさせず口だけしか動いてない人物を、視聴者は人間が喋っていると認識しています。そういうものだというお約束のうえで見ているからです。
しかし、『ベクシル』ではリアルさを追求した結果、ただ立っているだけの登場人物も上体がゆらゆらとわずかに揺れているのです。
たしかにその動きはリアルですが、同時に2Dアニメの「お約束」はとっぱらわれ、視聴者から一段階厳しい目で見られることになります。
創造したものをリアルへと近づけることは、見る者の現実を呼び起こし、その現実との差異を無意識に探させてしまうことでもあります。

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評議会とレジスタンスの会合シーン
画面にいる全ての人間の上体が、それぞれわずかに揺れている


カボチャを食べるシーンは、たしかに人間の動きを細部まで再現したのかもしれませんが、
キャラクターがリアルな陰影を持っているだけに、かえって人形が人間の動きを無理して真似しているような印象があり、ライブというよりは、無機質さのほうが目立ってしまってるように思えます。
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 ・日本のCGアニメの行方

監督の曽根氏は、前作の『APPLESEED』(2004年)ではプロデューサーを務めましたが、
このときの記者発表の場で、米国のCGアニメ作品について言及しています。
東宝 映画トピックス
http://www2.toho-movie.jp/movie-topic/0312/01appleseed_kk.html

曽利プロデューサー:
CG作品ですとピクサーの「トイ・ストーリー」や、今ですと「ファインディング・ニモ」がありますが、そういった作品は観客が感情移入できる作品として認知されています。ですからCG作品でも感情移入できることは実証されていると思います。一方、「ファイナル・ファンタジー」という作品がありましたが、あの作品でリアルな人間に近付けた表現をした時に、なかなか感情移入ができなかったという声を多く聞きました。そこにCGの壁を感じた方は多かったと思います。

「トイ・ストーリー」のようなキャラクターであれば感情移入できるわけですが、等身大の人間がお芝居をするようなCG映像になると、日本のセルアニメーションの方が断然面白かったり、感情移入できるのが今までの常識だったと思います。ただ、私自身CG屋ですのでその点に関しては異論があって、「CGでももっと凄いことができますよ」とアピールしたい気持ちがありました。


監督も『ファイナルファンタジー』(2001年)にCGの限界を感じてこの「3Dライブアニメ」という方向に活路を見出したようですが、その方向性は『ファイナルファンタジー』での違和感を払拭するようなものではなく、逆にその違和感を強調してしまったようにすら思えます。

『ファイナルファンタジー』では3DCGを実写に限りなく近づけることを目的としていましたから、人物も実在の人間に近づけテクスチャにまでこだわった質感のものでした。
しかし『ベクシル』では、キャラの頭身は実際の人間に近いものの、あくまでそれは漫画絵を基調にしたリアルさであり、日本特有のアニメ絵の延長線にあるCGキャラです。
このようなキャラクターにいくらモーションキャプチャーを施しても、人間と同じ動きをする人形にしかなりません。
そのうえキャラは表情に乏しく、とくに目の演技はほとんどないので、さらにマネキンのように見えてしまってます。
監督はもっと表情を表現できるところを、あえてこの程度の表情に抑えたようですが、その理由はやはりベクシルがアニメ絵のキャラだからでしょう。言い換えれば抑えざるを得なかったのではないでしょうか。

アニメの絵では鼻の穴を描かず、鼻から口元に伸びる頬のしわも描きません。
とくに「美人」を描くときにはこれらの要素は、ほぼご法度の記号になります。
このように実際の人間と大きな違いのあるCGモデルに、人間のフェイシャルキャプチャーを当てはめると無理が出てくるのは当然といえます。

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 緊迫した状況でも目に表情がない

また監督はピクサーの制作した『ファインディング・ニモ』や『トイ・ストーリー』を感情移入の出来るCG作品として挙げていますが、これらの作品はセリフとリンクした口の動きをみるとフェイシャルキャプチャーを使用しているのは確かなのですが、同時に漫画絵をディフォルメを意識して製作しているという点においては、従来の2Dアニメと基本的な考えかたは同じはずで、作品を見れば、彼らはこれまでの2Dのキャラクターをどうやって3Dに変換するかということに腐心して作っているのが一目瞭然です。

近年の『ファインディング・ニモ』や『ミスター・インクレディブル』では、その技術は円熟の域に達しつつあるのではないかと思えます。
日本のアニメだってもともと二次元で発達してきたものですから、頭身がリアルかどうかということに、たいした意味はないはずです。
米国の「共感できるCGアニメ」に対抗するのであれば、モーションキャプチャーやフェイシャルキャプチャーという方法にたよるのではなく、漫画絵のディフォルメを3Dに持ち込む努力をするのが正しい道ではないでしょうか。

そもそもピクサーやディズニーといったアメリカのアニメスタジオは、日本の手描きアニメに降参して、自らの独自性を磨くために3Dの道を行くことを決断しました。
その本気度に比べたら日本の3DCGアニメ作品は、カルトやアンダーグラウンドといった支流のほうに位置するのかもしれません。
つまり、予算的にも技術的にも制約がある、まだ発展途上中の分野なのだと思います。

しかし、日本の2Dアニメを基調とした3Dアニメは日本人の手によってしか成し得ないものだと思うので、『APPLESEED』や『ベクシル』という流れが、いつかピクサーの3Dアニメに対抗しうるレベルにまで達するのを見てみたいと思います。


実は、Production I.Gが制作した現在公開中の3DCGアニメ映画『ホッタラケの島』が、そのひとつの回答ではないかと思ってるのですが、観たら感想を書くかもしれません。
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『ホッタラケの島 ~遥と魔法の鏡~』(2009東宝)
©2009 フジテレビジョン /Production I.G / 電通 / ポニーキャニオン




...おまけを読む (作品の感想と解説)
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じゃりン子チエ 第11話 「金賞!チエちゃんの作文」



高畑勲演出の第11話は、原作からふたつのエピソードを描きます。
Aパート(30分番組の前半15分)は映画鑑賞のエピソードで、Bパート(後半15分)は、作文の発表会のエピソード。
両方とも「父親」を主題にしたお話ですが、原作では本来つながりのなかったこのふたつの話を並べることで、
チエちゃんの中の父親への想いが強調される構成になっています。

まずは、食べ物のシーンを中心に順に紹介していきます。


■お見舞いのアジ

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Aパートの冒頭に、前回第10話でケガをした小鉄をジュニアが見舞うシーンがありますが、
原作ではこれはBパートで描かれている作文のエピソードの途中にあるシーンです。

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アジの干物は小鉄の好物

ジュニアが手に持っているお見舞いの品はアジの干物です。
普通頭から食べられるアジの丸干しは小ぶりなアジを使いますが、
猫のスケールを考慮してもこのアジは、小アジと呼ぶには少し大ぶりですね。
お見舞いの品のゴージャス感がでています。

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「アジでも食えや、元気でる。骨も食たほうがええど」
そういわれた小鉄は、ジュニアの頭突きであばらが4本も折れ、添え木を胴にぐるぐる巻きにしています。
骨折した骨が早くつながるようにもってきたお見舞いが、この大きなアジの丸干しだったのでしょう。

 ・百合根の目線のはなし

今回のこの場面は、劇場版のラストと同じく屋根に上るお見舞いシーンになっています。
(原作では、このやりとりは部屋の中で行われます)

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小鉄がアジにかぶりついてるところに、遅れて屋根に花束をもって上ってきた百合根が話しかけます。
「先日はどうも、うちのジュニアが迷惑かけまして・・・」

猫のケンカの後始末にここまでするとは、相当な猫好きなだけではなく、百合根が猫を完全に人間扱いしていることがよくわかります。

さらに原作では畳の上での出来事だったのを、高畑演出では百合根を屋根に上らせています。
この描写のおかげで、百合根の猫への人間扱いがさらに強調されているといえます。


ペットに話しかける姿だけなら日常によくある光景ですが、
普通は人間が猫の目線で猫に話しかけるときは、人間がしゃがんで、つまり猫の目線までおりていって話しかけます。
このとき女性ならば、赤ちゃん言葉を使うかもしれません。
ここでは猫はあくまで目下の存在であり、目線をさげて”やってる”わけです。

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しかし、百合根の場合は、猫と目線を合わせるときの考え方がまったく違うのです。
だからこういうことも平気で出来てしまいます。
彼は今回、自分から猫のテリトリーである屋根に上って行って、猫と目線をあわしているのです。
小鉄にはもちろん敬語です。

つまりこの場面では、百合根は猫と対等の目線にあわさせて”いただいてる”のでしょう。
べつに彼は猫を相手にいつも自分を卑下しているわけではなく、今回の場合は小鉄に対して責任を感じていることもあって低姿勢になっているだけで、百合根の猫に対する基本姿勢は、ただ人間対する姿勢と同じなだけなのです。
そしてそれが彼のすごいところであり面白いところです。

恐らく百合根の、こういった猫へ向ける目線の裏には、彼の家族に対する切ない想いがあるからなのですが、そのことがわかるエピソードは残念ながらアニメでは描かれません。


■テツとかりんとう

さてAパートでは、チエちゃんが学校の宿題のためにテツを誘って映画を見に行く様子が描かれます。
もちろん人気映画ではなく、文部省選定映画。
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劇場の暗闇の中では、かりんとうをバリボリと食っているテツの姿が。
チエちゃんにうまくのせられて一緒に映画館まで来たものの、本当はちっとも来たくなかったはずので、その不満が態度に表れてしまってます。
テツが二時間じっとしていられるはずもなく、このあと百合根にからんだり、劇場の客にケンカを売ったりとやりたい放題。
チエちゃんの親子で映画鑑賞という目的は達せられたものの、散々な結果になってしまいます。

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かりんとうを食いながら百合根にちょっかいを出すテツ


どうやら親子水入らずの映画鑑賞に百合根がついてきたことが気に入らなかったようですね。
文句をいいながらかりんとうを食べるテツ。

紙袋の音と、サクサクポリポリという音が館内に響きます。

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時間の経過を表すカットが入り、まだテツのかりんとうを食べるシーンは続きます。
(原作をみると、ここで一時間たっていることがわかります)

テツの貧乏ゆすり
足元をみると、同じかりんとうの空き袋がもう三袋も。
みかんの皮も混じってます。
そしてテツの足は貧乏ゆすりで小刻みに震えています。

4袋目のかりんとうをバリボリ食べるテツ。
映画はクライマックスで、チエちゃんは画面に集中していますが、
テツは食べるほうに集中している様子。
どんどん食べます。


ポリポリポリポリ…

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「しかししぶといオヤジやなあ。さっきから死ぬ真似ばっかりしやがって。はよ死んで終われ」

どうもこの映画が気に入ってないようですね。
じっとしてなければいけない状況に、だいぶストレスを感じている模様。
このあとテツは、この空気に耐え切れず、ついに騒動を起こしてしまうことになります。


 ・かりんとうは精神安定剤?

テツがかりんとうを食べるシーンは、以前にも紹介しましたが、そのときの状況も今回と共通点があります。
それは、テツが精神的に安定していないというところです。

(その記事はこちら)
じゃりン子チエ 第7話 「テツの最も恐れる日」

テツはスキヤキに砂糖をたっぷりいれるような甘党なので、そのためかりんとうが好物でよく食べているのですが、
逆に言えば、それくらいしか食べたい菓子がないということです。

甘いものには精神を安定させてくれる効果があるといわれています。
それは糖分を摂取することで、脳の安定に必要なある物質が生産されやすくなり、その分泌を促すからですが、その物質をセロトニンといいます。
セロトニンは脳内ホルモンで、リラックスしているときに脳内で分泌されています。

人間はストレスを感じると、リラックスを得るためにこのセロトニンを必要とし、無意識にセロトニンが分泌される行動をとってしまう傾向があります。
その方法のひとつが糖分や炭水化物をとることであり、これは「代理摂食」と呼ばれる行動です。
空腹でもないのに食べてしまうものはみな、この代理摂食に入ります。

動物は空腹でなければ食べ物を摂取することはありませんが、人間だけは違います。
大脳が発達した人間は、本来空腹を満たす欲望であるはずの食欲を、精神的な原因により空腹でないときにも発揮するのです。
仕事でストレスのある人や失恋した人がヤケ食いしてしまうのもこの代理摂食に当たります。
そしてその行為には、精神安定物質であるセロトニンが関係しているわけです。

こう考えると、ストレスに弱いテツの甘党には納得のいく理由があったのだといえます。
もちろんこの場面でのかりんとうも、そういった裏づけを考えながら見ると面白いと思います。

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ところで実は、もうひとつセロトニンを分泌させるのに有効な方法があります。
それは「体に一定のリズムを刻んだ刺激を与える」ことです。
そうです、例えば貧乏ゆすりです。

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小刻みなリズムで縦揺れするテツの足

貧乏ゆすりは無意識にやってしまうものですが、これはストレスを発散させるために無意識にやってしまう生理的現象だという説があります。
そのストレス発散の仕組みがセロトニン分泌であり、それを促がすためスイッチがリズムを刻む行為なのです。

ここでもう一度、このシーンを考えてみると、もうひとつリズムを刻む行為があることに気づきます。
それは、かりんとうを食べる動作です。
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以前、『みなみけ』のえびせんを食べる描写を紹介しましたが、
えびせんのキャッチフレーズにも「やめられないとまらない」とあるように、スナック菓子には食べるのが止まらなくなるような魔力があります。
みなみけ 第3話 「球蹴り番長再び」 - あにめごはん
http://gugugu001.blog70.fc2.com/blog-entry-70.html

このスナック菓子の魔力には理由があります。
スナック菓子は、ひとつぶが小さく、一口で食べられ、噛むとサクサクとした歯ごたえがあり、次々に手が伸びるようになっています。
すると、そこにおのずと単調なリズムが生まれます。
この一定のリズムを刻む体への刺激が、精神を安定させるセロトニンを発生させるために、その心地よさから途中でやめられなくなってしまうわけです。
ガムを噛むと心が落ち着くのも同じ理由です。
そして、甘党のテツの場合は、ポテトチップスやえびせんではなく、かりんとうがこの役目になるわけです。

この映画館のシーンは、大量の空袋や、リズムを刻む菓子、甘味、リズムを刻む貧乏ゆすりなど、
テツのイライラを表すための様々な表現が盛り込まれていますが、
こう考えてみると、それらの要素にはきちんとした理由があることがわかります。


 参考:朝日新聞 2009.2.2「食の健康学 満腹④」
           2009.1.31「止まらない食べ物のナゾ」
           2009.6.6「元気のひけつ かむ効果」




■映画のあとのお好み焼き

百合根のお好み焼きの店、堅気屋に、映画を見終わった三人がそのまま移動してきました。
テツのせいで映画どころでなかったチエちゃんはむくれています。
そのテツは、なんで娘が怒っているのかさっぱり理解してない模様。

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「さあ焼けたでー」

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「チエちゃん、お好み焼きでも食べて機嫌直して」


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「チエはよ食べてくれ。機嫌が悪いのは腹減ってるからや」
ソースを塗ってあげるテツ。

娘が何でいらいらしてるのかと考えてはみるものの、自分を基準にしか考えられないので、こういう発想しか出てきません。
Bパートで、作文に嘘を書いてしまって悩むチエちゃんの描写がありますが。
布団に潜ってでてこないチエちゃんを見たときのテツの発想もこれと同じで、自分の過去をそのまま娘にかぶらせています。
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「わし子供のときバナナ食いたなったらワケのわからんことゆうてよう寝込んだもんや」


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ここでチエちゃんは小鉄にエサをあげるのを忘れてた事に気づきます。
しかし百合根が、冒頭のお見舞いのときにカツオブシを置いてきたようで、チエちゃんもそれを聞いてほっと一安心。

原作では、このエピソードはジュニアの登場前なので、違った描写になっています。
百合根は小鉄のために、もう一枚おみやげのお好み焼きを焼いてくれるのですが、
原作のその描写のほうが百合根の人の良さがでていて私は好きです。



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