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巨人の星 第2話 「悪魔のギブス」



■ 伝説の卓袱台返し

工場地帯のシルエットを浮かび上がらせつつ昇りくる朝日。
その朝の光が照らし出す長屋の片隅に星一家は住んでいます。
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星家は三人家族、母親はすでになく、姉の明子が家事をやっています。
つつましい一家に見えますが、つい先日まで父の一徹が酒を飲んでは暴れるというどうしようもなく荒んだ家庭でした。

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「こうして一家揃って朝ごはんを食べるなんて めったになかったわね」

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「なにしろ誰かさんは毎朝二日酔いだったからな」
「酒飲まないとメシ美味いだろ?」


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「こいつう」
ありえない笑顔で猫なで声を出す星一徹。
鬼にあるまじきにやけ顔。

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この和やかな食卓が直後に修羅場と化します。

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不良番長の赤川が尋ねてきて、平和な食卓にいらぬ火種を巻いていったのです。
一徹は赤川の話を聞いて激昂。
ついにアレがでます。


これが伝説の卓袱台返しだ

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怒とうのような連続ビンタ。

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泣き叫ぶ明子。
手前のひっくり返った茶碗が見るものの心をさらに荒ませます。


さらにこの変転の勢いで、飛雄馬が衣着せぬぶっちゃけ話をはじめます。

「俺は父ちゃんの顔を立てて楽しそうに飯を食べてたけど」

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「みろ」
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「こうして茶碗を持つたびに 悪魔のギブスは腕を逆方向に引っ張るんだ!」

なんと飛雄馬の笑顔もつくりものだったのです。
一皮剥けば修羅場なのも当たり前で、もともとここは修羅の住む修羅の家だったからなのでした。

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家を飛び出してしまう飛雄馬。

一徹は飛雄馬が力を見せびらかすことに極度の恐れを抱いているようで、
そのたびに酒を飲んだりして荒れ、涙を流します。
ちょっと極端な気もしますが、一徹の目指すのは「巨人の星」のみ。
その困難な道のりには些細な気の緩みさえも許されないのでしょう。

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第2話冒頭でも荒れている一徹

このときの一徹の恐れていたものがなんだったのかを視聴者が理解するには、
飛雄馬が高校に進学してからのエピソードまで待たねばなりません。
第18話の 「一番恐ろしい敵」 という回で、その理由が明かされています。



・卓袱台返しの真実

さて、星一徹のこの「卓袱台返し」ですが、世間一般にはこれはすでに星一徹の代名詞のようなものです。
星一徹に扮して卓袱台をひっくり返す芸人さんまでいたことからもわかりますが、
卓袱台返しといえば一徹、一徹といえば卓袱台返し。
このように卓袱台と星一徹は切っても切れぬ関係で語られてきました。


しかし全182話のうちで、
一徹が卓袱台をひっくり返すシーンは、この第2話にでてくる一回だけです。
なのに、なぜ一徹=卓袱台返しといったイメージがここまで定着してしまったのでしょうか。
それは、毎週番組の終わりに流れていたエンディングのスチール画の一枚に、一徹が食事の乗った卓袱台を押しのけて飛雄馬を殴りつけている場面があり、
このインパクトのある絵を毎週見せられていた視聴者の脳裏に、このイメージが刻みこまれてしまったせいでしょう。

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毎週流れていたEDに映る絵の一枚

そしてさらに、卓袱台をひっくり返す一徹のイメージは、
転じて「昭和のガンコオヤジ」という意味合いで語られているのですが。

実際のアニメでは、初期の一徹はどうしようもない飲んだくれのダメオヤジであり、
この第二話を見ても、卓袱台返しは冒頭のふてくされた飲酒と同じ文脈で語られています。
つまり、あの卓袱台返しは、ガンコオヤジというよりも、
自分の中の不平不満を処理できずに、癇癪を起こしているといったほうが近いわけです。

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ただし一徹のダメオヤジぶりは、第一話の終わりで川上監督が尋ねてきたあたりから変化をしはじめています。
実際に第二話では、一徹が飲んだくれている描写のほかに、まじめに仕事に精を出している描写があります。

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「今日はいつもの倍働いたぞ」

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「肉でも買って飛雄馬に食わせてやれ」

一徹の生活態度は回を追うごとに健全になっていきます。
第3話で酒にまた手を出す姿が描かれていますが、一徹が荒れるのはそれが最後で、
4話では、働き者の立派な父であり、りりしい野球の鬼になっています。

そしてそれ以降の星一徹は、ガンコ一徹な父権を備えた最強の男として、
飛雄馬に、伴宙太に、オズマに、記者団に、そして視聴者に向かって滔々と説教をたれ続けるのです。
そしてEDにはあの卓袱台返しのショット。
卓袱台返し=ガンコオヤジのイメージは、後半の一徹への視聴者の評価が反映されたものだったのです。

(第3話より)
この回では、姉弟そろって父親に逆らったのに対し、
一徹はやおら酒瓶をもちだしてダメオヤジっぷりを発揮しますが。、
一徹が人間らしい弱さを見せるのはこれが最後です。

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 一徹の醜態もこれで見納め

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「父ちゃんはなにかあるとそうして酒を飲めばいいけど、俺たちはどうなるんだ」
正論をいう飛雄馬。
ダメオヤジにとって、子供の正論ほど堪えるものはありません。
「野球嫌いは俺の子じゃない!」
でたらめな理屈で、出て行けというのが精一杯。

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「いけいけ! 俺の味方は酒と野球だ!」

このしょぼくれた男が、このあと人生を取り戻して凄まじい貫禄を見せつけます。
人間らしい弱さを嫌というほど見せつけたあとだけに、その姿は胸に迫るものがあります。



■天才花形満

さて、一徹に卓袱台をひっくり返させた一件ですが。
実はこれは、飛雄馬をブラックシャドウズに引き入れるための花形の陰謀だったのです。

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先ほど、一徹が荒れたのは第3話が最後で、4話から変わったという話をしましたが、
この4話でなにがあったかというと、飛雄馬の宿命のライバル花形満との最初の対決があったのです。

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花形の特訓を見て、その野球センスに驚愕する一徹(第4話)

飛雄馬と花形は、終生のライバルとして幾たびもの対決を通して互いを高めあい成長していきますが、
その輪の中には実は一徹も入っていたのです。
飛雄馬という夢を育てながらも、なおくすぶっていた一徹は、
花形という仮想敵を得て初めて、野球道という素晴らしい戦場へ返り咲き、夢を描くことが出来たのです。

花形を不良から更生させたのは、一徹を背景にもつ飛雄馬でしたが、
一徹を迷路から救い出したのは逆に花形だったといえます。

このときの対決。
花形はひとりで戦っていましたが、飛雄馬は親子二人で戦っています。
花形はひとりでこの親子の挑戦を受け止め、二人分のお返しをしていることになります。

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こう考えると、孤高の天才であり孤独な努力家でもあった花形のほうが、より男として格が上な気もします。
花形の性格は、幼少期をすごした海外での体験によるところが大きいのでしょうが、
それをひとりで乗り越えたのは彼の生来の素質によるものともいえます。

飛雄馬ものちに、一徹の鬼のような教育方針で孤独のどん底に突き落とされる事になりますが、
花形は最初からひとり。
飛雄馬が孤独に押しつぶされそうになっているときも、凛と立っている花形の伸びた背筋には、
そういった彼の芯の通った強さが感じられます。



■ 初期の作画

『巨人の星』は1968年から三年間放映されていましたが、
番組の最初と最後では作画のレベルに天と地ほどの差があります。
それはこの時期に爆発的な進化を遂げたTVアニメーションの、技術向上の歴史の歩みそのものでもありました。

『巨人の星』は、東京ムービーの制作となっていますが、
実際のアニメ制作を担当したのは東京ムービーの声がかりで設立されたアニメーション会社Aプロダクション(のちのシンエイ動画)です。
Aプロには、創立者の楠部大吉郎をはじめとして、芝山努や椛島義夫などの凄腕アニメーターが創立初期から参加しているのですが、
『巨人の星』を見ると、初期の絵はかなり稚拙で粗の目立つ作画でした。
ただ同時期に放映されていたアニメとしてはこれはごく標準的なレベルのものです。

『巨人の星』放映開始の翌年、1969年になると、エイケン制作の『忍風カムイ外伝』や、タツノコプロの『紅三四郎』などが始まります。
『忍風カムイ外伝』は荒々しいタッチながら、原作の世界を破綻のないデッサンと豊富なアクションで描ききった傑作でしたし、
『紅三四郎』に至っては、時代を15年くらい間違えたんじゃないかと思えるほどの奇跡的な出来の作品なので、あまり比較対象にはなりません。

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 この時代のTVアニメーションの雄、『忍風カムイ外伝』と『紅三四郎』
 現在の目で見ても決して見劣りしない作品。


その頃の『巨人の星』はというと、これらの作品には及ばないものの、着実に駒を進めていました。
放送も後半に入ると、かなり見栄えのする画面になってくるのですが、これは一朝一夕にそうなったものではなく。
その長い放映期間中にTVアニメーションのリズムを掴んだスタッフの実力が徐々にあがり、その成長に従って画面の見栄えも進化していったという印象です。

『巨人の星』は私が生まれる前の作品なので、私は何度かやっていた再放送を見ていましたが、
子供の頃は、この作品の初期の雑な絵や、貧乏臭い設定、濡れ衣を着せられたりといった陰鬱なストーリーが嫌いで、
飛雄馬の子供時代から高校あたりはとばして、入団テストのあたりから真剣にみていました。
それは、巨人軍という華々しい場に舞台が移り、いよいよこの作品の肝となる魔球対決が始まるということもありましたが、
この頃から絵が格段に良くなっていくのです。
子供の私には「絵が綺麗」というのは視聴の絶対条件でした。

しかし、大人になった今の目で見てみると初期のエピソードは、絵は稚拙なものの内容はとても面白く感じます。
それは初期の鬱々しいエピソードに共感できるようになったためもありますが、
演出面での技巧が、稚拙どころか巧みな手法を多用した濃い内容だからなのです。

この第二話では、クライマックスにトロッコの暴走シーンがありますが、
これを止める星親子の活躍の描き方が素晴らしいです。
絵が稚拙なためだいぶ損をしていますが、カメラワークやカット割りの技巧で場面を盛り上げています。
たとえば(2005年のZガンダムの映画化のさい富野監督がそうしたように)当時の絵コンテをそのまま今のアニメーターに作画をさせたら、
かなり迫力のシーンになるのではないかと思えます。

(第2話より)トロッコの暴走シーン

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ダイナミックなレイアウト

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めまぐるしく視点が切り替わるカット割り

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ギブスを外した飛雄馬が飛翔する開放感!

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軋む車輪! 寄るカメラ!


■ 名匠長浜忠夫

『巨人の星』の監督の長浜忠夫氏はその後、Aプロでいくつかのドタバタアニメなど担当したあと、東映のロボットアニメに参加します。
そして、ロボットアニメの世界にドラマチックな波を投入した直後に早世してしまいましたが、
TVアニメーションの創世記から発展期までを支え開拓したひとりであり、のちの作家に影響を与えた偉大な監督です。

ヤマトのブームを経てガンダムの放送の頃(1979年)、アニメ雑誌が続々と創刊されるような時代ともなると、
長浜忠夫は当時発生して間もない存在である「アニメファン」から、古臭く暑苦しい演出家として嘲笑される傾向がありました。
私自身、キャラの瞳の中に炎が燃えるという演出を笑いものにしているのをTV番組や雑誌のメディアで当時よく目にしましたが、
子供心にこういう言説が無粋な行為に思え不愉快でした。

しかし長浜忠夫は、当時の最先端であったガンダムの富野由悠季に多大な影響を与えたことでも知られる演出家です。
事実、富野監督の演出のクセには長浜氏の模倣と思われる手法がいくつか散見できます。
重要なシーンで背景やキャラの色がフィルターがかかったように鮮やかに変わり、キャラの内面にえぐりこんでいくといった描写などがまさにそうですし、
瞳の中に炎が燃えて竜虎が相対するような演出も、ニュータイプ同士の感応した精神世界で大波が漂っているのと同じ文脈で語れます。

過去の人というイメージが定着してしまったのも、ガンダムがあまりに新しすぎたせいがあると思います。
実際には演出の方法論としてみたときには、新旧と分けるほど急激ではなく緩やかな変化だったにもかかわらず、
ロボットアニメ界の世代交代を語るときの比較対照の素材として、二分化された新旧のうちの「古い側の人」として象徴化されてしまったのではないかと。
それもこれも、そもそもは長浜忠夫の演出があまりに印象的だったせいじゃないでしょうか。
ですから、これらの「古い」という批判は、長浜忠夫の演出を貶める理由には決してなりません。
富野氏が、よき時代を象徴する大御所となった現在ならばなおさらのことです。

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