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巨人の星 第12話 「鬼の応援団長」


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バシンと食卓に叩きつけられる箸。

飛雄馬の高校入学からしばらくたった星家の夕食の風景。
食卓の前で父に向かい合った飛雄馬が、青雲高校を辞めたいと申し出ています。

青雲の野球部で連日行われる伴宙太の理不尽なしごきに、伴の父親に気を使って言いなりの監督。
飛雄馬が失望するのも無理はありません。

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向かい合った二人の間にある食卓をチェックしてみると、皿の上の青魚はアジの塩焼きでしょうか。
それに味噌汁。大根かカブの漬物。
「納豆と味噌汁」の夕食より少しグレードアップしていますね。
昭和の質素な献立を絵にすると、ちょうどこんな感じになると思います。
味噌汁に野菜が入っていれば、なかなかバランスのとれた食事。


「チームワークを学べ」という一徹の言葉を信じて入学した高校なのに、
青雲高校野球部の内部事情はガタガタ。
失望した飛雄馬の退学への決心は固いようです。

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飛雄馬をシカトして食べだす一徹

すっかり馬耳東風の一徹の態度に、飛雄馬も怒り心頭。
話を聞いてるのかと怒鳴ると、一徹が箸を止めて一言。

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「聞いている」

聞いてたそうです。
「いただきます」もいわずにひとりで食べだすとは、よほどお腹がすいていたのでしょうか。
それとも青二才の飛雄馬のたわごとなど聞くに値しないというパフォーマンスでしょうか。
恐らく後者です。
一徹もなかなか小憎らしい役者ですね。

青雲野球部にはチームワークのかけらもありゃしないと嘆く飛雄馬を見て、
一徹が重い口を開きます。

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「お前は形のない幻に酔っている チームワークとはそんな甘いものではないぞ」

動じぬ父親に食い下がっていた飛雄馬、ついに寝た子を起こしてしまいました。
さあ、一徹の説教タイムです。
しかし今日の説教は一味違い、趣向が凝っています。
焼き魚を食べる描写とセリフがシンクロしているのです。

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「チームワークとはな、苦いもんだ」
いいながら魚のわたらしきものをとりだす一徹。
チームワークの苦さと苦味のある魚のわたとかけているのでしょうか。

続く一徹のセリフ。
「血みどろなもんだ。血と汗であがなってこそ本当のチームワークといえるんだ」
このセリフにタイミングをあわせて、魚の頭から汁がどろりとたれるので、
やはりそういった演出に思えます。

極めつけは最後のダメ押し。
「人誰しも長所あり欠点あり。それを補うのがチームワークとすれば、
欠点に目をつぶり傷口を舐めあってじゃれとる奴には永久にわからん!」

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アジの頭を箸の先につけて飛雄馬の眼前に突きつける一徹。
さすが一徹。
質素な食卓を最大限に使って、インパクトのある説教をします。

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オロオロする明子。
こんな男臭い家庭に生まれてしまった女の子は不憫です。

「わかったよわかりゃいいんだろ」

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「いただき!」

ふてくされて行儀の悪い挨拶で食事を始める飛雄馬。
しかし頭では納得はしていなくても、父ちゃんの気迫に説得されたようです。
アジの頭の効果はばつぐんでしたね。

飛雄馬はこれまでも父に反発したり、ひどいときには父の人格をなじったりしてきましたが。
口ではなんだかんだいっても、父親の背中を信じてついてきたのです。
父親の説教に納得はしてなくても、その小うるさい言葉の裏に、必ず真実があるのだと経験則で知っているからでしょう。



そして、相変わらずどうしようもない連帯しか持ち合わせていない青雲野球部が今日も飛雄馬を失望させます。
しかしそこに一徹の幻の姿が現れて飛雄馬を抑制するのです。

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グラウンドのしごきを逆手にとり、これまでと別種の空気を作っていく飛雄馬。
チームワークの大事さを語った一徹の言葉が、そのまま形になっていくさまは見ごたえがあります。

そんないじめに等しいしごきに負けない星の気合と、にじみ出る彼の実力を目の当たりにし、
さすがの伴宙太の心にも波風が立ちます。

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「青雲の英雄は柔道部の伴宙太だけでいいのだ・・・!」

そう自分に言い聞かせている伴宙太ですが、その心はすでに、
これまでに彼が出あったことのないタイプである飛雄馬という男と、
そしてその後ろにある巨大な影に魅入られているのでした。




■ 『巨人の星』と『あしたのジョー』



・『暴力脱獄』と『あしたのジョー』

『巨人の星』の原作者は『あしたのジョー』と同じ梶原一騎です。

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多くの人を惹きつけてやまないジョーのニヒルな笑み

(独居房に入れられたシーン)

先日、俳優のポール・ニューマンが亡くなったときに、
映画評論家の町山智浩さんが、出演されたラジオ番組の中で、
ポール・ニューマンの主演作である『暴力脱獄』(1967年)について、
『あしたのジョー』のストーリーとの類似を指摘をしていました。
町山さんの解説を借りてこの映画の要約をしますと、

主人公ルークはつまらない罪で刑務所に服役することになる。
牢名主は生意気な新入りの心を打ち砕こうとする。
主人公ルークの笑顔を消そうと、ボコボコにするが、
何度殴ってもニコニコ笑って立ち上がってくる。

牢名主は、最後にはルークに惚れこむ。
ルークは虚無を体現する男であり、なにもないから強い。
人を屈服させ飼いならそうとする秩序に反抗し決してくじけない。
それが人の心を動かし希望を与える。


これが『暴力脱獄』のおおまかなストーリーですが、
『あしたのジョー』の少年鑑別所篇でのマンモス西のエピソード。
そしてその後、ジョーが力石と出会うことになる特等少年院で、
ボクシングを通じて荒んだ少年たちの生活に潤いが生まれるエピソードは
『暴力脱獄』の大筋とかぶるところが多々あります。


・伴宙太とマンモス西

『あしたのジョー』が連載されたのは1967年末から1973年中ごろで、
暴力脱獄が公開されたのは1967年ですが、日本での公開は1968年で、
マンモス西のエピソードとほぼ同時期になります。

梶原一騎先生がこの映画に影響を受けたのかどうかは謎で、真相はわからない。
この件に関して町山さんはそう締めくくりましたが、
この話だけを聞くと、梶原先生が映画を見ていて、それをいただいたとしても不思議はないと
そういう印象を受ける話です。
私も、そのようなことはやはりあったのだろうなと思いかけました。

ですが私は、この話を聞いていて気づいたことがありました。
この意地悪な巨漢マンモス西が、へこたれない主人公ジョーに惚れこむという関係は、
意地悪な巨漢伴宙太が、へこたれない主人公星飛雄馬に惚れこむ関係とそっくりなのです。

このことは、飛雄馬がしごきの中で伴宙太に逆らい、伴の信頼を勝ち取るだけではなく、
やがては青雲野球部全体の意識を変え、鉄壁のチームワークを紡ぎだしていくという描写にもいえることです。そしてそれは『暴力脱獄』の物語の骨子とも極似しています。

『巨人の星』が週刊少年マガジンで連載されたのは1966年前半からであり、
高校篇が始まって伴宙太がしごきをやっていたのは講談社コミックスでいうと第2巻にあたり、週刊連載3か月分がコミックス一冊分と計算すると、66年のうちに雑誌に掲載されたものです。

映画『暴力脱獄』の原作小説『クール・ハンド・ルーク』の出版が1965年なので、梶原先生がこれを原書で読んでいた可能性もゼロではありませんが。(初邦訳は2001年)
『巨人の星』での主人公イジメが『あしたのジョー』のように刑務所という舞台ではなく、
グラウンドのしごきであることを考えれば、これは梶原一流のドラマツルギーであり、
のちの『あしたのジョー』にこの類似をみいだせるのも、これが梶原節であることの証明となるのではないでしょうか。

一流の映画と一流の漫画が、同時代の空気を背景にして
オカルティックにも思えるような、海を越えた共鳴を起こしていたとしても不思議はありません。
そもそも作劇のパターンには限りがあるので、これらの作品に同時に影響を与えた原典があるのかもしれませんね。



・『巨人の星』と『あしたのジョー』の類似性

町山さんの指摘から始まったこの疑問ですが、
考えてみると、そもそも『巨人の星』と『あしたのジョー』という作品には、
似通っている部分が多くあるのかもしれません。

1960年代後半は、同時期に週刊少年マガジン誌上に梶原一騎の作品がふたつ載っていて、
その二作ともが看板漫画というとんでもない状況でした。※

※しかも週刊少年マガジンの兄弟誌である『ぼくら』(のちに『ぼくらマガジン』)には、
梶原一騎のもうひとつの代表作である『タイガーマスク』が連載されていました。
『タイガーマスク』は1971年の『巨人の星』の連載終了と入れ変わるように、まだ『あしたのジョー』が連載されていた週刊少年マガジンに移ってくるので、少年マガジンはさながら梶原一騎の独壇場といってもいい状況でした。
梶原一騎は、まさに劇画原作の帝王です。

さて、いまだに根強い人気を誇る梶原一騎の二大スポーツ漫画『巨人の星』と『あしたのジョー』ですが、
『あしたのジョー』は高森朝雄名義で発表されたため、この二つの漫画が同じ原作者だと思った人は当時まずいなかったと思います。

今日(こんにち)、高森朝雄=梶原一騎だと知っている両作のファンでも、『巨人の星』と『あしたのジョー』はまったくの別物だと認識しているのではないでしょうか。※
※事実この二作のファン層は大きくかけ離れています。
そして現在この二作が当時の読者に懐かしく思い出されるときも、
『あしたのジョー』のほうが圧倒的に人気が高いようです。
このことは、当時少年漫画誌の読者であった若者たちを取り巻いていた状況と無関係ではないでしょう。

彼らはちょうど団塊の世代と呼ばれる人たちです。
そして団塊の世代が青春をすごした時代を取り巻いていた空気は学生運動と反権力でした。

『あしたのジョー』は当時アメリカから伝播した日本のカウンターカルチャーの申し子であり、
ジョーの権力への凄まじい反発と、そのエネルギッシュな言動に最も熱狂したのも当時の大学生たちでした。


そしてその大学生たちは右手にゲバ棒左手に少年マガジンを持って安田講堂に立て篭もっていたのです。
その学生運動が先鋭化した赤軍派の起こしたよど号事件では、
ハイジャック犯は、「われわれは明日のジョーである」との声明とともに日本の地を飛び立ったのです

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ジョーの眼に宿る飢えた野獣の光

反権力志向の読者に熱狂的に支持された『あしたのジョー』が、当時の団塊の世代の若者たちのハートを掴んだのと正反対に、
『巨人の星』は、当時もう古めかしくなっていた前時代的な「ド根性論」と、
強大な父権をもった父との一心同体ともいえる親子の絆が描かれています。
大人に逆らいたい若者たちが支持したのがジョーだとすれば、過保護な父の敷いた運命のレールに逆らえない飛雄馬が彼らに支持されるはずもありません。

そしてそれぞれの作品がもつ特徴は主人公たちの生き様の違いとなってはっきり現れていました。
時代の空気を反映していたジョーの人生が、新幹線のような弾丸特急で終点に激突する決死行だとすれば、
古めかしく禁欲的な飛雄馬の人生は、長距離の各駅停車の旅です。

どちらの人生に共感するかは読み手次第でしょうが、
真にすごいのは、これだけ違う作風のどちらもが後世まで語り継がれる名作だということです。

(つづき)
そしてその認識は正しいのです。
それは物語において作品の価値を決定付ける最大の要因である
「主人公のキャラクター」が、両作品ではあまりに方向性が違うからです。

「野球」を原理とした父親の教条主義のしもべである飛雄馬に対し、
自分の拳以外何も信じず、心理分析医に「乾いた砂漠のようだ」といわしめた矢吹ジョー。
性格からいっても、何者からも自由で狂犬のようなジョーと、鬱々と内にこもるストイックな飛雄馬はまったく正反対の主人公です。

水と油のようなこの二人ですが、
しかし、彼らを取り巻く状況は実は非常によく似ています。


肩を壊して夢敗れた一徹が、飲んだくれて廃人のような生活を送っている様子は、
同じく、左目を失明して夢破れて飲んだくれている丹下段平の姿と重なります。
片や一徹は息子飛雄馬を鍛え上げることで。
片や段平はダイヤの原石のような風来坊のジョーと出合ったことで、
それぞれ新しい夢をみつけて人生を取り戻すのです。


 ※それぞれのビフォーアフター

   [丹下段平の場合]

yopparattadanpei 
Before : 飲んだくれのどうしようもないオヤジ
       ↓

kibounodanpei 
After : 希望に胸膨らます段平



   [星一徹の場合]

    
Before :飲んだくれのどうしようもないオヤジ
       ↓

 ittetsuafter
After : 威厳あふれる野球の鬼



   [マンモス西の場合]

nishibefore 
Before : 泣く子も黙る牢名主 
       ↓

nishiafter
After : すっかりジョーの腰ぎんちゃく



   [伴宙太の場合]

 banbefore13wa 
Before : 泣く子も黙る応援団長
       ↓

  banafter35wa
After : すっかり飛雄馬の女房役 


そして、彼ら先人に夢を託された飛雄馬とジョーは、それぞれライバルとの戦いを通じ、勝利と挫折の中で成長していきます。

ただし、ジョーは最後まで狂犬ジョーでしたし、飛雄馬は最後までウジウジ飛雄馬でした。
そしてジョーが血の騒ぎの落としどころを見つけ、自分を完全燃焼させる場としてボクシングを選んだのに対し、飛雄馬は最後まで父を乗り越えることが目標であり、その帰結として彼は野球のしもべであり続けました。

そういった根本的な違いのある彼らですが、やはり彼らは同じ原作者梶原一騎から生まれた兄弟です。
最終的に彼らは、揃って「美しい破滅」に向かって突き進むのです。
その有様は双生児が似た運命をたどるストーリーの文学をみているようです。
このあたりの類似は、梶原一騎の勝負事に対する独特の価値観が反映されていて、なかでも「滅びの美学」への強い想いが結晶した結果なのでしょう。

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【2015/02/19 12:32】 | #[ 編集]

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