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じゃりン子チエ 第8話「母は来ました」


■ 夢の中の大福

今日は大事な日。チエちゃんの勝負の日です。
なんとしてでもテツに起きていてもらわねばなりません。
しかし、チエちゃんの決意をからかうように、テツは安らかな寝顔でぐーすかと寝ています。

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どんなに起こそうとしても起きないテツに業を煮やしたチエちゃんは、
耳元で大声で叫んで起こそうとします。
これにはさすがのテツもたまらず布団から跳ね起きますが、
まだ夢の中にいるらしく、現実と夢を混同した会話が始まります。

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「うるさいわい! 食事中じゃ~!!」

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「くそ~ あんな大福二度と食えんど。座布団ぐらいあったのに」

「なにアホな夢みてるねん」

食い物の恨みは恐ろしいとはいいますが、
「夢の中で食べ損ねた食べ物」のことで恨みを買うことほど馬鹿らしいことも、そうはないでしょう。



・ 『じゃりン子チエ』の夢の描写


『じゃりン子チエ』では登場人物が睡眠中に見る夢の描写がわりと頻繁にあります。
夢の内容は見る者によって傾向は違いますが、そのほとんどが脈絡のないシュールな彩りのものばかりです。
その描写のあまりの荒唐無稽さ、脈絡のなさは「これこそ夢」というべきもので、その意味ではぞっとするほどリアルな描写だとすらいえます。

夢は、睡眠中の大脳が、増えすぎた情報を整理整頓する過程で見るものだという説がありますが、
(パソコンのハードディスクのデフラグ作業によく例えられます)
だとすれば、人間が見る夢は、起きている間に経験したことの再構成であり、その人の精神状態の映し鏡でもあります。



     テツの夢

テツの夢には明らかに傾向があり、「食べ物」「家族に捨てられる」 夢が多いようです。

まず「食べ物」ですが、一般にマンガやお笑いでちょっと足りない感じのキャラクターを表現するときに、
「食べ物の夢を見ている」という描写をしているのをよくみかけます。
それは食欲が本能に直結した原初的な欲望であり、
 食欲は知的な欲求とはかけ離れている=食べ物の夢を見る人は知的ではない人
と、こういう意味合いが含まれているのでしょう

夢に出てくる「食べ物」はそのままテツの食欲の投影でであり、
この部分は、彼の極端に抑制された性欲と背中合わせになっているように露骨にふだんの生活に現れていますから、
本能に従って生きているテツの描写としては順当なものです。

問題はもうひとつの「家族に捨てられる」という要素です。
テツという人間の深層心理の奥底にある要素が、食べ物の他にはこれくらいしかないと考えると、かなり悲しいものがありますが、ふだんの傍若無人で能天気な顔のその裏に、こういった哀愁を隠しているからこそ、テツというキャラクターにぐっと深みが出ているともいえます。

そのことをセリフなどで直接描かずに、説明不足なくらいの夢の連作で描くという手法は非常に巧みな人間描写だと思います。


第4話にでてきたテツの夢のシーン
(このあと二人に逃げられます)
↓詳細はこちら
じゃりン子チエ 第4話 「テツの薬はゴロンパー」
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第36話でのテツの夢
嫁と子供にはすでに逃げられているという設定。
テツが心の底で一番恐れていることの現われ。



      チエちゃんの夢

一方、娘のチエちゃんの夢にはテツがよく出てきます。
夢の中のテツは様々な状況になっていますが、
それはそのまま、彼女がテツに抱いている様々な気持ちの表れでもあります。


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第45話でのチエちゃんの夢

テツがボクシングのチャンピオンになっています。

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「うち今日からテツをお父さんと呼びます」
この寝言は、彼女の無意識の願望が表出したものでしょうか・・・

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「もうテツには何にも期待せん自信があったのに…」


自分がまだテツに父親らしさを求めているのではないかと思い当たり、
自己嫌悪に陥るチエちゃん。


このほかにもアニメ化はされませんでしたが、
テツが死亡してしまうという夢をチエちゃんはみています。(コミックス12巻)

それがチャンピオンの夢のときのような「願望の現れ」でないことは明らかで、
このことはチエちゃんがテツの名前を寝言で呼び続け、夢の中では涙を流していたらしい描写があることからもハッキリしています。
このときテツは、市議会議員に立候補したレイモンド飛田の選挙活動でピンチに陥っていて、
チエちゃんはテツの事情には無関心で、自分やテツ以外の家族の心配ばかりしているようでしたが、心の底ではテツのことを一番心配していたのでしょう。

どちらの夢も子供の見る夢としては切なさがあり、
その哀愁は、テツの夢のそれと共鳴して一層深い哀愁の影を作品に落としています。
こういった要素は、ふだん明るいドタバタコメディである『じゃりン子チエ』の隠し味になっているのです。




...おまけ(作品の感想と解説)


■子はかすがいと申しますが

この第8話では、冒頭からなにやらチエちゃんが固い決意を秘めている様子でしたが、
この日は「同居予行演習」と称して親子三人で遊園地(※)に行く日だったのです。
この予行演習が成功するか否かに、竹本家の今後の命運が懸かっています。

この日のキーマンはもちろんテツ。
というより竹本家のキーマンはいつでもテツです。
これはもちろん大黒柱という意味ではありませんが、もしテツの扱いをしくじってしまうと竹本家は屋根から崩れてしまうでしょうから、
そういう意味では、テツはやはり一家の大黒柱なのかもしれません。

※ この「予行演習」はアニメでは遊園地に行きますが、原作では金閣寺の見物に行っています。
高畑演出のアニメ版では、遊戯施設で遊ぶテツを、チエちゃんとヨシ江が褒めちぎってもてはやすシーンが多いのが特徴です。


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「わーお父はん上手いプロやー」
拍手でもてはやすチエちゃんの後ろで、テツがボールを奪った相手にお金を払って謝っているヨシ江。
母娘の見事な連携プレー。

普段、テツの振る舞いにゲタで一撃を加えたりもするチエちゃんですが、
この日彼女はテツのご機嫌取りにまわり、一箇所を除いてほとんどテツに逆らってません。
その一箇所というのが、名場面として有名な歌うチエちゃんのシーンです。

この日チエちゃんは、拳骨から、なんとしても二人を会話させるよう密命を受けています。
電車に乗ったところから、ここが勝負のしどころだとわかったのでしょう。
彼女はいきなり歌い始めるのです。テツが怒鳴ってもやめません。

バクチに弱い父親と違って、チエちゃんは勝負師。
場の流れを読み、勝負どころをわきまえているのです。

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衆人を気にせず電車の中で歌い続けるチエちゃん
たじたじのテツが助け舟を求めたのは・・・



ところで、TVシリーズと劇場版では画面の縦横比が違います。
そのため劇場からTVに流用したシーンは左右をカットしてテレビサイズに合わせて放送していました。

TV版では画面が狭くなり情報量が少なくなってしまっていますが、
大体のシーンにおいて、遜色といえるほどのマイナスはないといえます。

ただし、次に紹介するこのシーンでは横長の画面を一杯に使ってのダイナミックな作画がされているため、
TV版ではなく劇場版の画像を使って説明します。
この場面では、チエちゃんが左右に大きく振り回されるのですが、
トリミングしたあとの画面では、振りまわされるチエちゃんが画面の外にはみ出してしまっているのです。

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  トリミングの位置が残念なTV版


アニメオリジナル要素のうち、特筆すべきはこのシーンです。
親子三人で手をつないで歩く短いカットなのですが、ここには明らかに意図的な、ある重要な暗示がこめられています。
ここでは、気を良くしたテツがはしゃいでスキップをする様子が描かれているのですが、
その様子は、この一家三人の関係を見事に視覚化しているのです。

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最初は三人は普通に歩いています。
それでもテツの性格が良く現れていて、家族のことなど考えずに、ひとりでどんどん先に歩いてるのでしょう。
その気になって走ればテツより俊足のヨシ江も、この場面では最後尾で引っ張られ気味。
やがてこのさりげないいびつさを含んだ歩きが、加速度的にいびつになっていきます。

 

この回では、チエちゃんがなんとか夫婦の仲をとりもって、ふたりをくっつけようとするわけですが、
そのストーリー上の構図が、そのまま絵になっています。

さらにこの構図は、今回のエピソードに限らず、作品全体を通した三人の関係ともいえます。
家族と手をつないではいるけども、ひとりで勝手にどんどん進んでいくテツ。
その身勝手さは、やがて大はしゃぎのスキップとなり、おかげで家族の絆は揺れに揺れます。
(のちにテツの起こした数々のエピソードはそのまま迷惑なスキップに例えられます)
中でも揺られているのは真ん中のチエちゃん。

ビスタサイズの画面をめいっぱい使って、チエちゃんが右に左にぶんぶんと振られます。
ヨシ江の不自然な体制を見れば、どれだけの無理な力がかかってるかは一目瞭然ですが、
それでもチエちゃんは決して手を離さないのです。

──絶対に手を離さないチエちゃん
子はかすがいといいますが、まさにチエちゃんは二人をつなぎとめる強力なかすがいとなっているのです。

さて、ヨシ江の帰宅する順序が原作と違っている劇場版では描きませんでしたが、
TVアニメでは遊園地から帰ってきたあとも、チエちゃんの努力は続きます。

 夜中にテツのズボンのポケットを探って取り出した紙には、とんでもないことが書いてありました。

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テツのしたためた、ある意味完璧なリハーサル台本

こんな台本で、家族の大事な再出発を計るわけにはいきません。
ここで気を抜いたらチエちゃんの努力も水の泡です。

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やがて明かりの下では、睡眠時間を削ってテツの台本を修正するチエちゃんの姿が。
「ウチは日本一寝る時間の少ない少女や」

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翌日、帰ってきたヨシ江の前で、昨日書いたリハーサルの台本とはまったく違うセリフを読むテツ。
その文面には、自らの反省と妻への思いやりが込められていました。
そして、そこには娘から両親へ向けた想いがこもっているのです。

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「再婚おめでとう」
チエちゃんの想いと努力が結実した瞬間の記念写真。
テツは、写真のようにこれからも後ろを向き続けますが、
これがこの家族がずっとうまくやっていくコツのような気がします。


(おまけのおまけ)

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劇場版での乗りものの話

この話の中で、私が好きなシーンがもうひとつあります。
チエちゃんの尽力が実って…というより彼女が予想した以上の効果をあげ、
ついにはテツがヨシ江の肩に手をまわすというシーンがありますが、
そのシーンの中で、不思議な印象を残すカットがあります。

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それは次のシーン(観覧車のシーンです)に画面が切り替わる直前のカット。
ゴーカートの運転中、テツとヨシ江の仲むつまじい姿にあっけにとられたチエちゃんが、
カーブを曲がる車列から離脱し、アクセルを離した惰性の状態で直進し、
そのままコツンと緩衝材として置かれたタイヤにぶつかるところです。

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今回ブログを書くために、この回をもう一度見直したのですが、
このゴーカートのシーンの最後のカットがもつ独特のリズムが不思議と気になりました。

そこから考えたことを書きたいと思います。

● 衝突のリズム

チエちゃんの乗るゴーカートが列をすーっと離れて、コツン・・・!
とても味わいがあって、余韻が残るカットです。

心にひっかかるのはなぜだろう・・・なぜだろう・・・と考えていたら、思い出したのです。
以前このブログで第三話のことを書きましたが、そこでのボートの衝突シーンに似ているのです。
このときは、衝突の後のトラブルを描かない劇場版において、衝突するシーンをわざわざ2回も入れた理由がよくわからなかったので、
特にそこに理屈はなく、リズム感を生み出すためではないかと推測してそう書きました。

第三話でボートが衝突するシーン


じゃりン子チエ 第3話 「激突!小鉄対アントン」 - あにめごはん
http://gugugu001.blog70.fc2.com/blog-entry-96.html#more


ただ、このゴーカートのシーンとの類似に気づいた後は、そこに何か意味があるのではないかと気になって仕方ありません。
そのうちある考えがまとまってきたのですが、自分としてはこれは的外れの空想のようでもあり、的を射抜いてもいるような気もするという、どっちつかずの感触なのです。
(というのも、これからお話しすることのいくつかは原作漫画の段階ですでに存在している描写を基にしているからです)
しかし、考えていくほどに、もうひとつの重要な要素である「高畑監督ならやりかねない」という部分がむくむくと頭をもたげて肥大化してくるので、 とりあえず胸のつかえを吐き出してみたいと思います。
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以前、これもこのブログで書きましたが、
劇場版は 「始まりと終わり」 「表と裏」 「陰と陽」といった対照的な形になる仕組みを巧みに取り入れて構成されています。
それは野良の小鉄で始まり、家族の小鉄で終わるという大筋から、
お母はんとのデートを中心に、チエちゃんの本音と建前が線対称の構図で描かれているといったエピソード単位での話でもいえることです。
(その記事はこちら↓)

劇場版 じゃりン子チエ - あにめごはん
http://gugugu001.blog70.fc2.com/blog-entry-88.html#more


さて、そのことを踏まえて、ここで先ほどのボートのシーンと、ゴーカートのシーンを思い出してみると、
この二つの場面には共通項が少なくとも5つあります。
1.行楽地 2.家族のデート 3.遊戯用の乗り物 4.よそ見 5.衝突

となると、どうもこのふたつのシーンは意図してリンクしていると考えられそうです。


そしての、「よそ見して衝突」 というのがけっこう大事なことのように思えます。

ボートは後ろ向きに乗る乗り物ですから、進行方向に注意しなければなりません。
しかし一度目の衝突のとき、チエちゃんは漕いでいるヨシ江の対面に座っていて前方を確認できる位置にいながら、
容姿を褒められて照れている間に衝突してしまいます。
二度目は、ヨシ江と並んでオールを漕いでいるため、余計進行方向には注意しなければならない状況ですが、
これもヨシ江に褒められて照れている間にぶつかっています。

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         よそ見              衝突

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         よそ見              衝突

ゴーカートのときは、チエちゃんは夫婦の仲の良さに見とれている間に衝突しています。

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         よそ見              衝突


これを先ほどの「陰と陽」の構図に当てはめて考えてみます。
この二つの行楽のシーンでは、一家に陰を落としていた問題に大きな違いがあります。
ボートのシーンのときには別居中で離れ離れだった家族が、遊園地のときにはひとつにまとまり、
夫婦の寄りが戻った瞬間にチエちゃんの乗るゴーカートが衝突しているのです。

さて、ボートの二回の衝突をなぜ映画でカットしなかったかという理由を、私は「リズム感」と評しましたが、
ここまで考えてくると、このリズムにはそれなりの理由があるように思えます。

つまり先の二回の衝突は前フリであり、あとにくるカタルシスを盛り上げるための助走だったのではないかと。
私が気になったように、二回のボートの衝突を入れることで、観客の脳裏にこのリズムを印象付けておき、
忘れた頃に、そのリズムが鮮やかに蘇る仕掛けなのではないかと思えるのです。
いわば、ホップ ステップ ジャンプで家族の幸せが飛翔する形になっているといえるのではないでしょうか。

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さて、この「よそ見して衝突」という要素をもった乗り物シーンが、実はもうひとつあります。
それは、マラソン大会でチエちゃんに追いつこうと、テツがポリ公からかっぱらった自転車のシーンで、
これはボートとゴーカートの間に位置しています。

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         よそ見             衝突

このシーンでのテツは、走るチエちゃんに置いて行かれるのを避けるために自転車を盗むというシチェーションです。
つまり、行楽地二箇所のシーンと違い、画面のふたりはこの空間を共有していないわけで、追走シーンはあくまでテツひとりの視点で進みます。
そして結局テツは電柱に衝突することで、チエちゃんに置いてけぼりをくらい、留置所で一夜を明かすことになります。
ボートの搭乗者二人と、テツの一人乗り自転車、これをたすと1+2=3。

つまり家族の営みを象徴する遊園地という場所をアニメオリジナルで付け加え、自分で運転する(言い換えると「よそ見のできる」)ゴーカートを入れることによって、
結果的に、別れ別れの三人がひとつの家族となる表現になるように計算されて乗り物描写が配置されているのではないかという話です。

遊園地ではゴーカートに乗っていたのはチエちゃんひとりでしたが、このとき家族はひとつの場を共有していました。
そして、このゴーカートの「…コツン」という衝突のシーンの前後は、家族全員で乗る乗り物のシーンになっています。



● 人生という名の乗り物


さて、ここからがこの話の本題なのですが、
これら乗り物のシーンは、家族三人の人生の暗喩ではないかと思うのです。
遊園地のシーンだけではありません。
この作品では、「乗り物」を登場人物の「人生」に例えて配置しているのではないかと思えるのです。



この作品にでてくる乗り物を順に挙げてみるとこうなります。
ボート、自転車、行きの電車、遊園地の乗り物 (ジェットコースター、スプラッシュボート、空中回転式飛行機、空中回転式乗り物、犬の回転式乗り物、メリーゴーランド、100円の子供用木馬、ゴーカート、観覧車)帰りの電車


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       行きの電車(左) と、帰りの電車(右)

「人生のレール」だとか「人生の終着駅」という言葉があるように、一般的に、電車は人生の比喩表現としてよく語られます。
創作の世界でも、戯曲『欲望という名の電車』は電車を人間の性に例えていますし、手塚治虫の『ブラックジャック』の一編にはこれをもじった『人生という名のSL』と題されたエピソードがあります。

『じゃりン子チエ 劇場版』では、登場人物が乗る電車は二回出てきますが、
それは遊園地への「行き」「帰り」 の電車であり、遊園地内での乗り物のシーンをサンドイッチしている形になっています。
つまり、この遊園地のエピソードは「電車」で始まって「電車」で終わる構成になっているわけです。

遊園地のエピソードは、原作とTVでは「同居予行演習」という位置づけであり、映画では同居してから最初の家族の共同作業。
どちらにしても、今後の一家の生活を占う大事な行事です。
そして、このエピソードに集中的に配置された乗り物は、ここで扱っているテーマである「これからの親子三人の同居生活」つまり彼らの「今後の人生」を暗示しているとしても不思議はありません。

ここで、もう一度遊園地での乗り物を見てみましょう。

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ジェットコースター

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スプラッシュボート

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空中回転式乗り物二種

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犬の回転式乗り物

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メリーゴーランド

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100円の子供用木馬

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ゴーカート

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観覧車

こうしてみると、三人で乗っている乗り物ばかりではありませんね。
例えば飛行機のカットにはテツの姿は一切みえませんし、三人が二機に別れて搭乗しているものもあります。
メリーゴーランドでは、テツは同じメリーゴーランドに搭乗しながら、一人馬車に乗って前の馬に乗っているふたりに不満げなまなざしを送っている様子が描かれています。
100円の子供用木馬ではテツひとりがはしゃいでいます。

これらの搭乗バリエーションは、のちの『じゃりン子チエ』に存在する数々のエピソードの人物配置にかぶるものばかり。
その様子は、彼らのその後の人生そのものが投影されているといえるのではないでしょうか。

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そして遊園地の乗り物のクライマックスは観覧車です。
観覧車がそれまでの乗り物と違う点は、その圧倒的な高さです。

観覧車は乗った者を頂点の高さまで運んでくれます。
視点が高くなると、広範囲の景色を一度に目に入れることが出来るようになるだけでなく、
立体的な遮蔽物の高さを越すことで、いままで見ることが出来なかった景色が遠くまで見渡せます。
つまり「目線を高くする」ことは「視野を広げる」と同義の部分があり、
それはあたかも、このゴンドラに乗った三人の未来の可能性が広がったことを意味しているかのようです。

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 遠ざかっていく地面…小さくなる景色に反比例して広くなる視界

そして、このとき見える景色は海。
かもめが飛び交う向こうに見える水平線は、まだ見ぬ無限の可能性を秘めているかのよう。

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 海が見えるクライマックス

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海を眺めるチエちゃんの笑顔と目の輝きは、これからの家族の未来に希望を見出したかのようです。

この観覧車のクライマックスで終わる遊園地のシーンは、そのまま帰りの電車の車内シーンにクロスフェードします。
行きの電車→遊園地のときと違い、遊園地→帰りの電車の場面切り替えだけにクロスフェードという表現を選択した理由は、この二つを重ねる必要がそこにあったということです。
その意図を考えてみましょう。

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クロスフェードする観覧車とチエちゃんの寝顔

「行きの電車&帰りの電車」と「遊園地の乗り物」は、同じ乗り物でありながら、大きな違いがあります。
それは、「現実の生活に使う交通手段」と、「遊戯用の乗り物」という違いです。

この「遊園地行き」は、そもそも「同居の演習」(原作では同居前なので「予行演習」)ですから、
その演習の舞台である遊園地にて登場する乗り物には、三人の「人生の予行演習」の意味が重なっていると考えられると思います。
となれば、その遊園地に行くまでの交通手段である「電車」は、作り物のファンタジーの世界である遊園地の外の世界。
つまり三人の「現実の生活」の意味を持たされていることになります。

そして、このふたつの異なる世界の乗り物(観覧車と電車)がクロスフェードで重なるということは、
「演習」が「実践の本番」へと移行したことを意味し、大成功を収めた遊園地での家族三人のつながりが現実のものになったという意味があるのではないでしょうか。

つまり、彼ら親子三人の人生を乗り物に例えて表現することで、
彼らの人生が変わった決定的な瞬間を強調して描いているのではないかということです。
そのために、原作の金閣寺の描写を遊園地に変えたのだと考えると非常に納得がいくように思えます。

─「変化した現実」と「変化した車内」─

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行きの電車
「まずいなあ…このムード」



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帰りの電車
「私らいまこうやって喋ってますやん」


● 通過する電車の乗客

最後に、書き忘れてはいけないことをもうひとつだけ。
ここでは、登場人物が乗る「乗り物」の話をしているので、合間合間にでてくる町を通過していく電車の遠景の描写は除いていますが、
実はこの映画の最初のカットは「夜景を通り過ぎる電車」なのです。
そして映画の最後のカットは劇場の緞帳(どんちょう)が下りる描写です。

各エピソードの始まりと終りを対称的(シンメトリー)に描く構造をここまで持っている映画において、
その最初のカットと最後のカットに共通の意味を見出すのはさほど難しいことではないように思います。

 
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最初のカット。
街を通り過ぎていく電車。
右下の明かりの下にテツとおじいがみえる。

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続いて、テツが歩いていく向こうに見える踏み切りを電車が通過。
位置からして最初の高架の路線と立体交差している。
このふたつの電車のシーンは原作にはない。


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最後のカット。
緞帳が下りてくることで、最後に観客のメタ視点が強調される。


ここまで劇場版に登場する「乗り物」のことを考えてきたうえで、この「通過する電車」のことも考えてみると、
この電車は『じゃりン子チエ』のキャラクターたちのほかにも存在しているその他大勢。
それこそ観客も含めた大勢の人たちの人生と、作品の登場人物が交差している状況を俯瞰的視点で表現しているのかなとも思えてきます。

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この「電車の乗車客の人生」を「映画の観客」とみなす考えは、
一家が遊園地に行くときの電車の乗客が、歌うチエちゃんの「観客」になっていたという符合からも、うかがえるのではないでしょうか。

この乗客たちが我々観客の目線を持つ者だとすれば、このエピソードの他では誰が観客の目線を預けられているのでしょう。
以前書きましたが、普段は小鉄にその役目が与えられているように思います。

いわば、小鉄と観客の我々はゲームの中のキャラクターとそれを操作するプレイヤーのような関係なのではないでしょうか。
ゲームの外、つまり緞帳の外側で映画を見ている観客の我々がまずいて、
スクリーンの内側に入れない我々は、小鉄を通すことで竹本一家の人生を覗き見ることが出来ます。
しかし、あくまで小鉄は我々の目の代行者であって我々ではありません。
彼はもともと、あちら側の住民なのです。
その証拠に劇が終わるとき、小鉄は下がっていく緞帳の向こう側にいるのですから。

もしもラストカットにおいての「緞帳の外の我々」と、最初のカットの「通過する電車」が同じ意味を持たされているとするのならば、
この電車の中の乗客は、小鉄とは違って我々そのものといえるのではないでしょうか。
映像作品におけるメタ要素というものは、宿命的に本来はスクリーンの中には入っていける性質のものではないわけですが、
この電車に緞帳の外を重ねるというやり方のおかげで、電車の中という限定された空間においてだけ、我々もチエちゃんたちの人生にニアミスしていることになります。

それは高畑監督から我々へのプレゼントだといえないかと、こんなことを考えて今日も日は暮れていくのです。
ちょっと危ない世界に行きかけましたが、ここで私も我に返りました。
気付けばおなかも減ってきたので、今日の晩御飯のことでも考えたいと思います。 

(閉幕)


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