このブログをやっている以上避けて通れないのがスタジオジブリ。
いつかジブリ作品を扱おうと思っていたのですが、
他に紹介したい作品がたくさんあったので、なかなか機会がありませんでした。
『じゃりン子チエ』は劇場版一作と、TVシリーズ二作が作られていますが、
劇場版と、最初のTVシリーズの監督は高畑勲です。
ここでいう「ジブリ」は、「高畑&宮崎」とほぼ同義に考えてるので、
今回のじゃりン子チエも、広義のジブリ作品に該当するのではないかと考えたのですが、
(実際、劇場版DVDはジブリレーベルで発売されています)
TVシリーズでの高畑氏のチーフディレクターという肩書きが、
実際には肩書きほどには重要なポストではなかったという説があり、
また、私もこの『じゃりン子チエ』という作品に関しては、TVの第一シリーズを中心に紹介していきたいので、
さらには、原作への敬意を込める意味もあって、カテゴリーはジブリ外にしました。

■劇場版とTVの関係
『じゃりン子チエ』の劇場版は1981年に公開され、
これが好評だっために、そのまま同じスタッフでTVシリーズが制作されました。
TVシリーズの10話くらいまでは、劇場版と使用エピソード がかぶるため、
劇場版の動画がそのまま使われています。
背景は、劇場版が大阪のロケハンを生かした緻密な写実的表現なのに比べ、
TVでは、作業効率の割り切りをした、荒々しい水彩画タッチの絵になっています。
画像を細部まで比較してみましたが、
シネスコサイズとTVサイズが違うためか、動画部分には、
描画の細部が微妙に違う(つまり手書きトレスで描きなおした)ものがいくつかありました。
しかし、点描や斜線まで一致するものも多くありました。
つまり劇場版と同じ動画からトレスマシンでセルにトレスしているのでしょう。
劇場版の動画を、TV版に流用するにあたって、
どういう工程でそういう差が生まれたのかは気になりますが、
どちらにしろ、動きに関しては、TVへの流用シーンは劇場版に比べてまったく遜色がないといえます。
カット数もセリフもまったく同じですから、高畑勲のクレジットがない回でも、
初期の10話程度に限っては、高畑勲の演出が色濃く出たフィルムだということができると思います。
次回からTVシリーズを紹介していこうと思いますが、
以上の理由から、劇場版の流用シーンは高畑勲演出として扱います。
ドヤ街のちょうちん明かりの描写が見事な劇場版に比べ、さびしいTV版

レイアウトは同じだが、建物も配置物もデザインがまったく違う。
人物以外の小物(この場合割り箸たて)のセル画部分は新たに描き起こされている。

レイアウトがやや違う場面も。

TVでは、劇場版が色トレスで書いていた部分を主線トレスで処理している。

こんな違いも。

さて、前置きが長かったですが、ようやく食べ物のシーンです。
高畑作品だけあって、劇場版は食べものがたくさん出てきますが、
そのうち、劇場版にしかないシーンは以下の二つです。
■ 小鉄との出会い
劇場版では、チエちゃんの愛猫小鉄の登場の仕方が、原作及びTVとは違います。
原作では甘味処でもらってきたのですが、映画では通りかかった野良猫として登場し、
チエちゃんにもらったホルモン焼きをほおばりながら、
マサルとのケンカや、おばあはんがテツにブレーンバスターをかけるのをじっと見つめています。
やがて外から覗き見していた小鉄は、いつのまにか、チエちゃんの横にいるのです。
映画は、小鉄とアントンジュニアの対決でクライマックスを迎え、団欒のスキヤキで締めとなりますが、
俯瞰で見ると、この映画は小鉄に始まって小鉄に終わる構成になっているのに気づきます。
これは小鉄を観客に見立てた演出ではないかと思われます。
チエちゃんにホルモンを放ってもらう小鉄。
この世界の猫は人間のように手足を使います

じっとテツの顔を覗き込む小鉄
いつのまにか隣にいる小鉄
原作でも小鉄はチエちゃんの横にぴったりついていて、その理由が明確に描かれていないので、この猫には一種謎なところがあり、
その解釈のためか、TVのほうでもオリジナルの追加シーンにて、
小鉄が野良の生活に疲れて、根をおろした生活をしたがっている様子が描かれます。
映画版では、小鉄登場の構成を変えることで、その理由を簡素にはっきり説明していると思います。
小鉄はチエちゃんが好きなのです。
このでたらめな一家にも興味があるのです。
単にホルモンで餌付けされてしまっただけにも思えますが、
小鉄は、チエがマサルをひっぱたいたとき、ホルモンを落とします。
これはエサよりも、チエちゃんに興味をもっているという表現だと思います。
そして、観客も小鉄と同じ目線で、興味しんしんこの一家を見守ることになります。
「人間と付き合うと苦労するよ」
ラスト近くにて、原作にもあるこのセリフをうれしそうにいう小鉄の気持ちが、
ここまで2時間近くチエちゃんたちを見守ってきた観客には、共感できるものになっているはずです。
映画のラストでは、原作と違い、小鉄も一家団欒のスキヤキに参加しています。
つまりこの映画は、野良猫が一家の一員になる過程を描いた映画といえます。
それは同時に、「観客が一家の一員になる」という意味が重なっているのではないでしょうか。
日常のエピソードを数珠繋ぎにしていくと、どうしても流れが緩慢になりますが、
高畑監督はこういった仕掛けで、全体を引き締まったものにしているのです。
■ お母はんとぜんざい
チエちゃんの母親は、旦那のテツのあまりのだらしなさに耐えかね、家を出てしまってます。
娘のチエちゃんとは、たまにこうしてこっそりデートしてますが、
今日のお母はんは、そろそろ家に戻ったほうがいいのではないかと迷っているそぶり。
そんな優柔不断な母に対しチエちゃんは、
テツは少しも変わってないので、まだ戻らないほうがいいとバッサリ。
しかしお母はんのほうが、そろそろ限界なのではないかと思われます。
本来は、このあとに小鉄が登場するタイミングなので、
これは原作にもないシーンなのですが、
映画では、お母はんがぜんざいをぼそっと食べるカットが追加されています。
心ここにあらずという様子で、チエちゃんに語った内容よりも如実に彼女の心理を表していると思います。

原作では小鉄の登場のため、やや明るい感じで流されてしまっていますが、
このシーンがかもし出す独特のイメージは、構成を変えたための副産物といえます。
もしかするとこちらが理由としては先にあったのかも・・・?
■高畑演出の視線
もう紹介する機会はないと思うので、
劇場版にしかないカットを、もう少しとりあげたいと思います。
チエちゃんがお母さんとデートするシーン。
(劇場版のみ)高架の下をくぐると外の世界
チエちゃんの服も、裁縫の上手なお母さんが縫ってくれた、おろしたてのよそ行きです。
ま新しい服を着込んで誇らしげに歩いていくチエちゃん。
このときカメラが下からあおり気味になり、チエちゃんの目線が上を向いているのは、
あごをひいて「お上品」に歩いてる顔を下から狙った描写だからだと思われます。
(劇場版のみ)通天閣を背景にしゃなりしゃなり
TVの初登場シーン
TVシリーズの第一話のチエちゃんが最初に登場するシーンで、
(これも高畑勲監督の案だと思うのですが)
チエちゃんが真上を仰ぐ一見無意味なカットがあります。
これは番組の最初にチエちゃんの性格を端的にあらわすための印象的な動作だと思います。
これが本来のチエちゃんの「顔」だとすると、
「これが本当のうちの姿やねん」と本人がいってるのは、よそ行きの嘘の顔ということに。
しかし、そのチエちゃんのよそ行きポーズも次第に化けの皮がはがれ(笑)
ウキウキしている心情が、ほとばしるように動作に現れていきます。
待ち合わせの公園に近づくにつれ、小走りからだんだんスキップして飛び跳ねるチエちゃん。
このとき注目なのは、チエちゃんがスキップしている印象的なシーンが、
手前を歩く人物によってことごとく遮蔽されているということです。
なぜこのような躍動感のあるシーンで、飛び跳ねる人物を通行人でさえぎるようなことをしたのでしょうか。
遠景と近景を速度を変えて流すことで、画面に立体感が生まれ、
躍動感にダイナミズムが相乗する効果を狙ったのかもしれません。
しかし、このシーンは、単に画面の見栄えのために、技術的な手間をかけただけなのでしょうか。
高畑勲監督は思索の人で、意味のない演出はしない人だという「信頼」から、そうではないとはっきりいえます。
よくみると、チエちゃんが飛翔するのにタイミングをあわせてか、
手前の人物が見事にチエちゃんを隠しています。
これは作画をした人にとっては不満の残る出来のはず。
高畑勲監督は、衆人の中のチエちゃんという構図を強調したかったのだと思います。
チエちゃんにとって、「素晴らしい出来事」が、周りの人にとっては「他人事」。
しかしだからこそ、チエちゃんの中の素晴らしい出来事が際立つのです。
ひとつの視点からではなく、一歩ひいた俯瞰の視点で、
人間と人間の関係性をじっとみつめる高畑監督ならではの視線の細やかさが現れている秀逸なシーンだと思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−
さて、チエちゃんはお母さんと別れて、家に帰ります。
しんみりするシーンですが、
「明日はまたあしたの太陽がピカピカやねん」という、
この作品のテーマといってもよい名台詞中の名台詞がでてきたあと、
高架の下をくぐって、自分の元いた生活に戻っていく様子が描かれます。
劇場版とTV版では、このシーンが、同じカットをいくつも使いながらも、
描かれ方がまったく違うものになっています。
映画では、この高架をくぐって戻っていくシーンは、
最初に高架をくぐって出かけるのとワンセットの、象徴的な構図になっています。
TVでは高架をくぐって出ていくシーンがないので、この構成は反映されていません。
また、拾ってきた新しい仲間小鉄も寄り添って走ることで、TVは希望のある終わり方になっています。
しかし映画のほうでは、「ピカピカやねん」と強がった後のチエちゃんの感情の起伏がさらに描かれているのです。
(映画版)一人でつよがっている哀愁のある背中。
(TV版)小鉄が後ろをついていく希望のある後姿。
そして映画には、自分の庭である西荻の商店街を、
チエちゃんが走り抜けていく長まわしのカットがあります。
ここは、出かけるときの煽りアングルとは真逆の構図であり、
上空からのさめた視線で、チエちゃんが全身を使って感情を処理しようとしている様子を描いているのです。
「お出かけ」と「帰路」とは、
お母さんとのデートを境にして線対称の構図になっていますから、
「これが本当のうちの姿やねん」と「明日の太陽がピカピカやねん」 が、チエちゃんの嘘の姿や言葉だとすると。
それら虚構の姿が、感情の前に崩れ去って、
ウキウキして走っていく姿と、寂しさをこらえて走っていく姿が、本当の姿。
そしてそれらは、見事に相似形で描かれているわけです。
このチエちゃんがひとりで走って帰っていく構図は、
観客の目線をもつ小鉄がいては不可能な表現ですから、
考えるほどに、小鉄の登場順を入れ変えた意味は大きいなと感じさせられます。
■劇場版の感想
私は劇場版よりも、TVシリーズのほうが好きです。
映画は、話題づくりのためか、当時の吉本の人気芸人が総出演しているのが売りでした。
そのため何役か、声優にいくつかミスキャストとしか言いようがないものがあり、
特に、マサルとタカシの紳助・竜介は致命的だったと思います。
これはTV版のキャスティングと、声優さんの素晴らしい演技を聞けば明らか。
しかしこの芸人起用路線が、西川のりおという最大の拾い物を生んだ功績を忘れてはいけません。
彼の凄まじい好演(怪演?)の結果、作品全体をのりお色に染めてしまうくらいのインパクトがありました。
しかもその怪演が、作品のカラーと見事に一致していたのです。
こうしてみると、怪男児竹本テツを演じれる人間はのりお師匠以外におらへんのやないかと思ってしまいます。
他の人間では、たとえプロ声優さんでも彼に代わる演技はできないでしょう。
TVでは、芸人キャストのうち、西川のりおと、相方の上方よしお(彼もミツルを好演しています)以外のキャストが全部変更され、
彼らだけ残されたというのも、ギャラの問題を考えても、この作品からのりお師匠を外すわけにはいかないからであり、
チエちゃんを演じた中山千夏さんと同じかそれ以上に、重要なキャストなのです。
こうしたことも含めて考えると、劇場版は、
緻密な演出で完成された隙のないの構成にも関わらず、全体的には隙だらけの疑問符のつく仕上がりに思え、
独立した1本の映画作品というよりも、
傑作TVシリーズ『じゃりン子チエ』のパイロット版だったと捉えるのがふさわしいのではないかなと思います。




この記事に対するコメント