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じゃりン子チエ 第2話 「テツは教育パパ!」



■ やっかいな客

ホルモン屋をひとりで切り盛りしているチエちゃん。
忙しい時間帯も去り、お客が赤ら顔で帰って行きます。

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「おおきにまたきてやー」

表まで出て、お客を笑顔で見送るチエちゃん。
上客にはとても素晴らしい対応。
しかしそうでない客には・・・



この界隈は、一筋縄ではいかないようなゴロツキも大勢いるようです。
そういう手合いに一歩もひるまないのもチエちゃんです。

「金ここに置くで」
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チエちゃんは客とすれ違い、
勘定を手に取るや、すばやく振り向きます

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「こらおっさん!」
「酒が2杯ホルモンが13本や、400円たらん!」
客に詰め寄るチエちゃん。

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「わし5本しか食うてないやないけ」
すまし顔でとぼける客。

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チエちゃんの顔がみるみる歪んでいきます。
この顔になるとやばいです。

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椅子を蹴倒すと、おっさんが座っていた足元には8本の串が。
「おっさんが串隠すとこ、うちちゃんと見てたんや」

恐らくこれはハッタリだと思います。
勘定はちゃんと覚えていても、忙しいせいで客の不審な行動などいちいち監視している余裕はないからです。
オッサンのほうも、そこにつけこんで串を隠したのでしょう。

チエちゃんは、オッサンの「証拠はあるのか」
という居直りに何も言い返せなくなり黙ってしまいます。

042413
「証拠のないときはどないするんじゃこら」
チエちゃんピンチ・・・!

そこにちょっと嫌なヒーローが登場し、
おっさんはほうほうのていで逃げ出すことになりますが、
店の仕入れの金をちょろまかしているようなヒーローだったためか、
あまり褒めてはもらえません。

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しかし、チエちゃんの中で、こっそりとテツの株は上がったことでしょう。
チエちゃんの笑顔がそれを物語っています。



さて、このシーンは、あまり食べ物とは関係がない描写だったのですが、
あまりに素晴らしいシーンだったため紹介しました。
これは劇場版にもあるシーンで高畑演出です。
(この第二話は高畑勲が「武元哲」の別名義で演出している回でもあります)


042904 042402 
金をとってさっと振り向き、
足で椅子を蹴倒して、証拠の串を突きつける動作の軽やかなタイミング。
さっと下方に縦パン(ティルトダウン)するカメラ。
流れるような動きのひとつひとつに目が離せません。



これら、計算された動きのタイミングも素晴らしいのですが、
高畑演出は見れば見るほど味が出るというか。
気に入って何度もこのシーンを見ているうちに、あることに気づきました。
それはキャラの立ち位置です。



原作では、このたちの悪いオッサンは店の入り口近くで飲んでいて、
金を置いて去ろうとするのを、チエちゃんがカウンターを回りこんで追いかけてくるため。
このやり取りは、店の入り口近くで行われます。

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しかし高畑版アニメでは、まず客が奥で飲んでいるところが違います。
そして直前に、他の客を店先まで出て送り出すというシーンを入れているため、
このオッサンとすれ違うカットが生まれています。

042400 

すれ違いざまに「おおきにー」といったとき、チエちゃんとおっさんが一瞬だけ最接近しますが、
その距離はどんどん離れていき、
すぐさまチエちゃんが金を勘定して、「こらおっさん!」と呼びとめたので、
オッサンは、店の入り口で止まります。
052800

チエちゃんとオッサンの立ち位置がここで決まります。
チエちゃんは、不正の現場に陣取るため、オッサンが飲んでいた位置を動きません。

そしてオッサンも動かないのです。

オッサンは、いつでも逃げ出せるように入り口(出口)に陣取っているだけかもしれませんが、
それよりもこの演出では、ふたりの「距離」の方に意味があるように思います。

一見オッサンの物腰やセリフは、
理不尽ないいがかりをつける店主に対して、冷静に誤解を解こうとする態度にみえるのですが、
完璧に演じて見せているようで、彼の態度には「嘘のサイン」がでているのです。

人間が会話するときには、適切な互いの距離というものがあります。
「ひざを突き合わせて」という言葉が存在するように、
込み入った話をする場合ほど、自然と相手との距離は近くなるものです。

彼は、チエちゃんと込み入ったやりとりをしているのですから
無実ならば相手の距離(テリトリー)に入って、「話をする態度」を整えてから会話をするのが自然な行動のはずです。
ですが、話はどんどんこじれてるというのに、オッサンは入り口(出口)から動こうとはしません。

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 離れた距離で進む会話


そしてこの距離関係が崩れるときがきます。
「証拠はあるのか」というオッサンの開き直りに、チエちゃんがぐうの音もでなくなった瞬間、
オッサンは一気に攻勢に転じます。
そしてこのときとばかり、彼は近づいてくるのです。

近づくオッサン
        近づいてくるオッサン

ふたりの距離は、まるでオッサンの気の持ち方のバロメーターです。
無実のふりでとぼけていたときの彼は雄弁でありながらも、気持ちのうえでは守勢でした。
しかし、相手が弱くなった瞬間に彼は距離を縮めて、自らの強さを誇示しだしたのです。

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原作では、勘定の言いあいからチエちゃんが小突かれるまで、終始ふたりの距離は変わりません。
アニメ版での、このふたりの距離の伸び縮みは、
先にチエちゃんが客を送り出したり、オッサンが飲んでいる場所を変えたりと、
お膳立てをしてつくりあげた、「計算された立ち位置」により生み出された演出だと思われます。




この回は高畑勲が演出している回でもあり、
劇場版の名シーンが詰まっているかなり濃い回なので、
まだまだ紹介しなければならないシーンがあります。



■主人公の性別

以前も書きましたが、キャラクターの生命力を生み出すのは。
人間の三大欲 - 食欲・性欲・睡眠欲 - です。
『じゃりン子チエ』では「食」の表現の豊かさはいうまでもなく、
表現を通して、キャラクター達に生命力を注ごうとしている姿勢がハッキリしています。

もちろん主人公チエちゃんの生命力の象徴である三大欲もきっちり描かれています。
前回は、第一話での「食」と「睡眠」を表現したシーンを紹介しました。
では「性」どうなのでしょう。

性欲は食欲と同列の、人間の基本的な本能の欲求のはずですが、
社会的には、露骨な性の表現は隠すべきものとして忌避されています。
そのため、年齢制限のない映像メディアでは「性」を直接ではなく、
間接的に垣間見せる表現が発達してきました。

普通は「恋」の要素を絡めることで、その裏に潜む「性」という大きな本能の存在を表現することができます。
しかしこの作品の主人公チエちゃんは、まだ思春期前の小学生なのでちょっと無理があります。
せいぜいマサルのちょっかいにオエーとなるくらい。

べつに無理せずとも、そのような表現は必要ないかとも思われるのですが、
しかしこの作品では、チエちゃんの生命力を呼び起こすために、それに代る仕掛けをしています。

結論を言ってしまいますが。
『じゃりン子チエ』での「性」の表現は、セクハラで成り立っています。
象徴的なシーンが、早くも第二話ででてきます。

前半、授業参観のプリントをテツが入手するシーン。

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通りがかった往来で、テツが騒いでます。


賭けの対象に巻き込まれてしまうチエちゃん。

通りがかった人物の性別を当てるこのバクチは、
チエちゃんが来てしまったためにテツが負けたのですが、
往生際の悪いテツのこと。
話がおかしな方向に転がっていきます。

042432

予想外の展開にボーゼンとするチエちゃんのアップ。
テツがいうには、生まれたときは彼女は男だったんだそうです。

042434 
「しゃーないチエみせたれ」
「うちなに見せるの」


042435 
「キンタマ見せたれ」

042436 再び呆然としてから・・・

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「キンタマ!?」

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 042439
「レディになんちゅうこと言うんじゃ!」


このシーンは主人公チエちゃんの「性別」を、ことさらに強調しているため、
印象深くもあり、同時に意味深いシーンといえます。



『じゃりン子チエ』の主人公チエちゃんは、いうまでもなく女の子ですが、
当時は、少女漫画以外のメディアで、女の子が主人公になることは珍しく、
連載開始から間をおかずして一大ムーブメントを巻き起こした『じゃりン子チエ』という作品のインパクトに、
この「主人公の性別」は大きく貢献していたのではないかと思われます。
そしてそれは、この作品が時代を超えた名作となった欠かせない理由のひとつでもあったと思います。

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のちに週刊少年ジャンプで大旋風を巻き起こした『ドクタースランプ』にも同じような新鮮さがありました。
『じゃりン子チエ』の第二話では、スタッフのお遊びか、チエちゃんのクラスにアラレちゃんそっくりの生徒が混じっています。
(劇場版では不二家のペコちゃんでした)

これは当時、ドクタースランプが超人気だったこともあるのでしょうが、
当時の時代背景をもう少し考えてみると、単にそれだけではないように思えてきます。

『じゃりン子チエ』も『ドクタースランプ』も同じく「女の子が主人公」の異色漫画であり、
テレビのブラウン管にほぼ同時期に登場した主人公の彼女らが、
同じクラスで学んでいるというこの構図は、あることを指し示しているような気がするのです。

すなわち、
男児向けの「男の子の世界」と、女児向けの「女の子の世界」がキッチリと住み分けられてきたテレビアニメ界において、
「視聴者層の性別と同じ性別の主人公が活躍する」というそれまでの暗黙のルールが崩れ、
新しい時代が到来したという象徴的な意味が、このおふざけシーンには込められているのではないかと。

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想像ついでにいうと、私はドクタースランプの作者である鳥山明先生は、
『じゃりン子チエ』から大いにインスパイアされて、
アラレちゃんというキャラクターを生み出したのではないかなと考えたりすることがあります。

『じゃりン子チエ』の展開は鳥山明のもうひとつの代表作である
『ドラゴンボール』と似ている部分が多いと感じるからなのですが、
その話はまたの機会にして、セクハラの話の続きを。
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さて、男性が読む雑誌に女の子がわざわざ主人公として出てくる理由はなにか。
それは、女の子には華があるからに他なりません。
男雑誌においては、「女の子」というのは、それだけでキャラクターの大きな構成要素となりえるのです。

漫画アクションのような男が読むような雑誌の中で『じゃりン子チエ』が大人気を博したのも、
ヒロインチエちゃんに華があったからだと思います。

しかしチエちゃんは子供ですから、
セクシーな描写をするわけにもいきません。


ですから、セクハラに対するリアクションを描くことで、
チエちゃんの奥底に眠る生命力=性の力を呼び起こす表現、
つまりセックスアピールをしているわけです。

セクハラというと低俗ですが、
これを演出としてみたとき、このシーンは本当に神がかっているというか、
神々しいまでに秀逸なシーンです。


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細かい動作で緻密な表現をする高畑演出


ゲタをカラコロいわせて、チエちゃんが歩いてくるところから目が離せません。
やがて会話をするふたりの男の話に聞き耳をたて、
感情の動きがクルクルと表情に表れ変化していきます。

この流れるようなリアクションが、不必要かとも思える細かい動きによって表現され、
チエちゃんの心の動きが手に取るように視聴者に伝わってくるのです。
動きもタイミングも速度も、ツボを心得た匠の技です。


元になった劇場版では、このシーンは冒頭のつかみに使われていたので、
高畑監督も、ここは勝負シーンとしてかなり力を入れて演出したのだろうと思います。



高畑監督が手がけたセクハラの演出はこのシーンくらいですが、
この作品には、セクハラといえる場面が他にもに多く存在し、
「うんこしっこ」のシモネタまで含めると、かなりの頻度になります。

42話同窓会 45話
 「キンタマ」「フリチン」で顔を赤らめるのがお約束


それは、原作漫画からして、このセクハラ要素が、
作品の方程式の中に組み込まれ、しっかり確立されているからであり、
『じゃりン子チエ』の大きなの特徴のひとつである「主人公の異端の性別(=女)」という武器を、
最大限活用しているのだといえます。


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